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ふる里を記憶と写真で綴る昭和・平成


地 名

地 名


笠敷

 元倉から長田に行く町道の途中に、笠敷というところがあり、地名にもなっている。この道は昔、太田方面から長田、長沢、檜沢を経て烏山に通ずる旧街道筋であり、烏山街道と呼ばれてきた道で、太田方面から塩や魚を馬に載せた商人が往来したといわれる。
 元禄年間、水戸の黄門様が諸国漫遊のとき、この道をお通りになり坂道を上った頂上付近にさしかかった折に、赤松の枝ぶりの良い古木があって、根本で一休みした際に笠を敷いて腰をおろして休んだことから、笠敷と呼ばれるようになったと伝えられ、この峠を笠敷峠と呼んでいる。
 昭和の中ごろ、笠敷峠を越えずに長田に抜けられる立派な町道ができたことにより、薬研掘りの旧街道の難所、笠敷坂を上ることなく峠を越えることができるようになった。


金田と金洗い

 野上地内の中程に金田という小字があり、またその下流には金洗いというところがあり、いずれも地名になっており金に係わる地名である。
昔この辺りは川が流れていて、金田から金洗いにかけて砂金の採取をして砂金洗いをしたことから、金田、金洗いの地名になったものと思われる。金田から下流の渡芝、金洗いにかけての石は、角のない丸い石が多く出土している。砂金の砂を採取して、下流の比較的水量の多い金洗いあたりで、砂金を洗ったものと考えられる。いずれにしても、同じ流れの郷に金に係わる二つの地名があるというのは関連があるものと思慮される。


柳久保

 野上の元倉地内に柳久保というところがあり、地名になっている。
 元倉の奥に位置する柳久保谷津に溜池があり、土手には柳の古木があって、水田の作業時には柳の下で休んだといわれる。
 この溜池の南側が大きい杉の森であったので、冬季には陽があたらず厚い氷が張り詰めて子供達の格好の遊び場となり、氷すべりで賑わった。
 現在では、溜池の奥からゴルフ場となり当時の面影もなくなったが、溜池と地名だけは柳久保として残っている。


サイコ入り

 元倉の中程から西に入った谷津を、サイコ入りと呼んでいる。昭和三十年代までは、この谷津の奥から長田や照田に通ずる二本の道路が通っていたが、ゴルフ場の造成によっていずれの道路も廃道となった。
 昔、地内に現存する観音様の近隣にお寺があって、その寺の名とサイコ入りの由来と、地名との係わりがあるのでないかと言われてきた。観音様はお御堂とも呼ばれ、また氏神として地域住民に親しまれてきた。現在では樹齢三百年以上という椿の木だけが残っているが、昭和二十年代までは御堂の周りには黒松の大木が数本立ち並び、生繁っていた。特にコブだらけの幹で推定樹齢五百年ともいわれ、昭和五十年頃まで花を咲かせていたサルスベリは、見事であった。


シモッパラ

 現在の流田辺りを、シモッパラと言っていた。以前この辺りは赤松の大木が生繁る山林であった。営林署管理の官林山であったが、昭和の初期の頃に地域の農家の人達が払い下げて、数年かけて開墾して畑となった。畑になったことにより、一面の野原となり地域としては原地区内であり下の原であることから、シモッパラと呼ばれるようになったと思われる。
 以前は、四、五軒のみの家が点在していたが、平成になってからは団地も造成され大きな集落となり、昔の原っぱ、シモッパラの面影はなくなった。


ジジイコロバシ

 野上の笠敷から更に奥に入り、長田との境に位置する辺りに、ジジイコロバシと呼ばれる珍しい地名のところがある。姥捨山という山の話は聞いたことがあるし、楢山節考で映画化されるなど婆さんの姥捨て山の話は有名だが、爺さんを捨てる山とも思わせるような地名の、ジジイコロバシと呼んでいるところが現存する。笠敷山の北の方角にあって、山の行き詰まりの突端で、険しい崖があり断崖絶壁のところがある。ここが爺さんを捨てる山ともとれる、ジジイコロパシと言われてきたところである。
 この周辺は、メジロ捕りによく行ったところで、当時の人は誰もが知っている山であり、隣接する沢をオニクボといった。


経塚

 上の原地内に、経塚と呼ばれる塚があり地名にもなっている。他にも経塚から北にかけて数か所の塚が一群をなしていた。しかし、経塚と呼ばれる塚とは全く異なるものであるといわれる。経塚、十三塚いずれも町の遺跡になっている。経塚は、仏教の経典を書写して供養したものを地中に埋納したものといわれる。塚の大きさは直径(幅)が約十五メートル、高さ二メートル位で、塚の上に石の碑が建っており、「法師宥傳不産、元禄十四辛巳歳」と刻まれている。法師宥傳という願主が元禄十四年に造られたものなのか。
 なお、経塚、十三塚は茨城県遺跡地名表にも掲載されている。


十三塚

 野上に十三塚という小字があり、経塚の付近より北から南にかけて一群を成して塚が点在している。この塚に添って笠敷山から長田を経て烏山に通ずる旧街道筋となっていた。
 その内の二基はとりこわされたが、何も出土はなかったとのことである。取り壊された二基の塚のうち一基は、十三塚の中でも特に大きい塚であった。
 何の目的で造られたのかはさだかではないが、今でも街道筋に添って数基の塚が残っている。現在でも、この辺りは十三塚という地名で呼ばれている。


越地

 県道、門井山方線の野上と照田堺近くの谷津一帯を、越地という。コエジとかコシジと呼ばれている。地元の人達はオッコウシとも言っていた。
 コエジ谷津の周辺は雑木山が多く、キノコの産地で知られたところであった。谷津の入口付近に溜池があって、コエジダメイと呼んでいた。
 昭和の初期のころ溜池に隣接する上流付近に炭鉱があり、石炭(亜炭)が掘り出されていたことがあった。太い松の木の丸太で組まれた鉱跡が残っていたが、この辺り一帯がゴルフ場となり、造成工事によって坑道跡もなくなってしまった。


オオガッパラ

 野上の原前から上大賀に抜ける途中辺りを、オオガッパラと呼んでいた。
 現在では、野上から上大賀の善光寺様まで住宅地として家が並んでいるが、昔は馬車が通れる程度の道路で、両側はクヌギや松などの林が延々と連なっていた。
 野上の原前から上大賀までは家も数軒しかなく、クヌギ等の原っばであり、この辺りをオオガッパラと言っていた。
 上大賀の大賀原なのか、広い原っぱ地帯なので大岡原、オオガッパラなのか、今でも年寄りはオオガッパラと呼んでいる。


野上の宿場

 現在は、野上消防団詰所前の県道と町道との交差点で交通信号機のある所が野上十文字とされているが、昔は、JR水郡線の踏切手前辺りを十文字と呼んでいた。今でも年寄りは集合場所など間違えることがある。丸太で造られた三本柱の火の見櫓が、三夜様と並んで建っていた。
 昔も上町から下町あたりまでが野上の宿場であったように地名などから窺える。上町、仲宿、横町、下町と小字で分けられるが、十文字から小屋場にかけて、橋場、桜本、仲宿、バンバ、ギンナンの木(銀杏)、タナ(店)などがある。
 南郷街道筋でもあり、下町から上町にかけて十文字を中心に栄えていたようだ。古書等によると、横町周辺も大蓮寺にかけて住宅が多かった。また、野上原駅前あたりを下町(シタマチ)と呼んでいる。
 なお、上大賀から野上原を通り、経塚の坂を抜け笠敷を経て烏山に通ずる烏山街道も走っている。他に、野上原から流田を通り照田を抜けて御前山方面に通ずる街道がある。


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