米ができるまで
田起こし、田植え、刈取り、脱穀乾燥と、一連の作業がすべて大型機械によって行われている現在では、当時の農作業は想像もできないような手作業による重労働であった。
秋の取り入れが終わると、すぐに来年の米作りに向けて作業が始まる。最初に田起こしの旧冬うないである。旧正月前の秋、旧冬に行うことから旧冬うないといった。
刈りとった水田を、万能で1メートル位の幅に螺旋状に起こし土を重ねていく。草の根や球根等を凍らせて枯らすのと、土を乾燥させるために行うもので、荒起こしである。
春になると、冬期間に準備しておいた木の葉を、旧冬うないをした水田に均等に散らして耕す。旧冬うないをしたところを再び耕すことから、くりがえし、といった。次に水田の周りの草を草刈鎌できれいに刈り、草を刈ったところを鍬で削り、水が漏らないように万能で土を寄せて、柔らかくなるまで水を入れて置く。これをクロ寄せ、といった。柔らくなった泥土を削ったところに手ではりつけて、水が漏らないようにする。その上を鍬できれいに撫でたら、クロはりは終わる。クロはりの次に、水を入れ更に細かく耕して、こぎりという仕事が終わる。こぎりの次に、水をいっぱいに入れて更に細かく耕してやっと平らになる。カジロつくりといった。このカジロが現在の代かきである。カジロつくりしたところを、ヤダ棒という均し棒で表面をきれいに均して、やっと田植えができるようになる。
すべて万能による手作業のため、機械の場合一回で済む田起こしが、このように手間を要したのである。
苗は、五月頃水田の中間あたりに苗代をつくって、一晩水に浸した種を播く。これを水苗代といった。育った苗は手でひいて一掴みぐらいに藁で束ねる。束ねた苗を、植え代に適当な間隔に投げいれる。
田植えは、隣近所の家などとの共同作業のユイトリとするのが多かった。植え方には、正常植えといって田植え用の綱を張り横一列に並んで、綱に添って植える方法と、それぞれ適宜に植えていく、やたら植え、の二通りあった。正常植えは人数の多いときに行った。田植えは農家にとってはお祭りのようなもので、赤飯を炊き酒肴での豪華なものであった。田植えの時に必ずつくった料理に、磨きニシンとゼンマイその他、切干し大根の煮つけものがあった。
共同作業であり、全部の家の田植えが終わるまでには二週間位続いた。雨の日は雨合羽などはなく、藁やシュロの皮で編んだミノを着ての仕事であった。
田植えが終わると、田の草取りである。一番草と二番草と必ず二回の草取りをした。除草剤などなかった時代なので、手でかき回しての草取りである。四つんぱいで腰が痛くなり、立ってばかりいたものである。
そして秋になり、いよいよ稲刈りとなる。鎌で一株ずつ刈って束ねて、オダを作って一束ずつ掛けて、二十日位して乾いたら束ねて、背負いばしごやリヤカーなどで家に運び、足踏み脱穀機での脱穀である。脱穀した籾は、フルイにかけてゴミを取り除き、唐箕にかけて選別し、これを俵に入れてやっと倉庫入りとなる。旧冬うない、から1年がかりの米つくりである。
昔の田植えは、栗の花が咲く頃が盛りであった。現在より一カ月位遅かった。秋の旧冬うなから秋の収穫までの一年がかりの仕事がすべて手作業であり、朝から晩まで働いても間に合わず、現在より田植えなども一カ月位遅れていたが、遅れていたのではなく、間にあわず遅くなってしまったのである。
こうした手作業は、昭和三十年代までで、以降は経済の成長と共に急速に機械化されて現在の大型機械での農業と変わってきたのである。
旧冬うない
秋の取り入れがすべて終わると、一斉に田起こしの旧冬うないが始まる。
旧冬うないは、米づくりの一番最初に手掛ける仕事である。水田の荒起こしである。
盆や正月など、すべて旧暦で行われていた当時、暮れの旧冬に行うことから、旧冬うないといった。
万能を使って水田の外周りから起こし始め、渦巻き状に中心に向かつて起こしていく。
1メートル位の幅に起こしていって、最後は田の中心で終わる。田の土を起こし土を乾燥させて病虫害を防ぎ、また凍らせて草の根や球根を枯らすために、旧冬の寒くなる前に行った。
起こしていると、冬籠り中のドジョウが捕れて追い目になり、仕事の能率も上がったものである。この田起こしも大変な仕事であったので、若い者同士でユイトリでの作業が多かった。夕方には捕ったドジョウ料理での一杯が楽しかった。
旧冬うないは、田に氷がはる頃まで続いた。
木の葉さらい
松喰い虫の被害によって、松の木の大半が枯れてしまって、昔のきれいな松林の面影は全く見られなくなった。尚、電気器具などの普及などに伴って、薪や木炭などの需要が少なくなり、益々山との縁が遠くなってしまった。したがって山は荒れ放題となり、足を踏み入れられないような現状である。
昭和の中頃までは、落ち葉を堆肥にしたり、水田に入れたりして落ち葉の需要は多かった。葉煙草の耕作者も多かったので煙草の苗床に使用したり、さつま芋の苗床などにも利用し、落ち葉は農家にとって大切な資源であった。
秋の取り入れが終わると、山の下刈りをして落ち葉さらいがはじまる。落ち葉を熊手でさらい集めて、大きい籠で苗床や水田の旧冬うないをしたところなどに運んだ。
また、木の葉まるき、といって、運びやすくするために落ち葉を束ねたが、慣れないと難しい仕事で、中々結べず束にならない。二本の縄を地面に並べて置き、その上に藁を均等に敷いておき、熊手で木の葉を捏ねて、両手でしっかりと抱きかかえて持ち上げ、敷いてある藁の上に置く。これを三回位同じように置いて、藁の下に敷いてある二本の縄の片方を、足で動かないように踏みつけていて、反対側の縄をもってロール巻きにして束ねる。この時、踏みつけている縄が足からはずれてしまうと、弾みでバラバラに崩れてしまう。何回も失敗を繰り返して覚えるが、慣れてくると全く同じ大きさの束ができるようになる。
苗代つくりから田植えまで
現在では、水稲の苗は農協に予約して一括して購入できるようになったが、以前は家で苗を育てて植えた。
昭和三十年代までは、水苗代といって水田の中に苗代をつくった。五月頃に水田の中間あたりの水を入れやすい場所を選び、区画をクロで仕切り、万能でやわらかくなるまで耕して、1メートル幅位の短冊型に泥土を五センチ位盛り上げ、草取りなどのため短冊と短冊の聞を二十センチ位空けて、植える面積の量に合わせて短冊をつくる。
種籾は、一晩位水に浸してザルなどにいれて水を切ったものを、短冊の上に丁寧に均等に播いてたっぷり水を入れる。スズメやカラスに荒らされるのでカカシを立てたり、糸を張ったり工夫して防除した。これで水苗代の出来上がりである。
播いてから四十日位で田植えができる位に育つ。
田植えになると、苗を水の中で短冊の端の方からひいて、一掴み位を藁で束ね、苗を植代に運んで適当な間隔に投げ入れて配置して植えた。
苗を植える人が植えやすいように、苗を運んだり配ったり気配りする人を、ケロリといった。田植えする人の周りに苗が足りなくなったら投げ入れてやったり、また多すぎるときは持ち出したりと忙しい大役なのに、なぜケロリといったのか分からない。
クロはり
水田の水が漏らないように泥土で土手をつくるのを、クロはりといった。
昔は、基盤整備などの改良はされていなかったので、小さい水田が何枚にもなっていたので、このクロはりが大変な仕事であった。特に谷津田などでは、一枚の水田が十坪位の小さい面積の田も多かった。
クロはりの工程は、最初に周りの草刈りから始め、次にクロをつくるところを鍬で削ってきれいにする。次に、削ったところに万能で土を寄せて水を入れる。水持ちの悪いところは、足で踏み固めて水が漏らないようにする。一週間位して、柔らかくなった泥土を削ったところに張り付け、鍬できれいに撫でてクロはりの終わりである。
しかし、何枚もの水田のクロはりは重労働であり大変な仕事であった。一見簡単で面白そうに見えるが大変な仕事であり、またクロを撫でるのも鍬先が土に食い込んでしまって思うようにはできないものであった。一時間もすると腰が痛くなり、立っている時間が長くなってくる。
この頃になると、どこの家でも一斉にクロはりが始まり、鍬でクロを叩く音がベッタンペッタン聞こえ、初夏の農村ならではの長閑な情景であった。
家畜を使っての田かき
農家では、馬や牛を飼っている家が多く、家畜を農耕に使う家が多かった。
田植え期には、荒起こしをした水田を馬や牛を使って田かきをした。家畜を使っての田かきは、家畜を操る人と、耕すための馬鍬を押す人がいて、二人の呼吸と家畜の呼吸が合わないとうまく耕すことができない。家畜をひいて操る人を、鼻どり(ハナドリ)と言い、馬鍬を押す人を馬鍬押しといった。馬や牛の轡に、竹などの棒を結んで、この棒を引いて操る。しかし、慣れないとうまく引けず、また家畜も思うように言うことを聞いてくれないので、馬鍬押しに怒鳴られる。ハナドリが水田の角を回るのが早過ぎても遅過ぎても、馬鍬がクロや土手に乗り上げてしまうので怒鳴られる。水田に大豆の茎などを肥料として入れてあるので、足袋を履いていても足が傷だらけになる。ミノを着ているが馬の蹴り上げる泥で体中泥だらけになり、顔も泥でだらけで目だけギョロギョロ輝いていた。
この季節になると、ホーラマワレショーと、掛け声をかけながら手綱を引くハナドリの声が、方々から聞こえたものであった。牛の場合は、馬と違って歩くのが遅いし、おとなしいので、ハナドリは大変楽であった。
家畜を使つての作業は、人間の手作業の数倍の能率が上がった。
畑うない
耕運機や、動力による大型機械などなかった時代なので、畑や水田など耕すのはすべて手作業によるもので、鍬や万能によって行われてきた。
水田は晩秋に旧冬うないで耕されるが、畑は陸稲や大豆などの収穫が終わってから、秋の麦播きの準備として耕すもので、陸稲畑や大豆畑などを鍬で手作業によって耕すことを畑うないといった。
鍬で耕す力仕事なので、若い者同士でのユイトリでの共同作業で行うことが多かった。
手作業ということもあって、畑うないは半月位続いた。鍬で一本畝ずつ耕していくので、重労働であった。腰をかがめての作業なので、三日も続けると腰が痛くなって休んでいる時間が長くなってくる。しかし、ユイトリ作業は立ってばかりいると、後からうなってくる人に追いつかれるので、つい無理をして頑張ってしまい、夜には腰が痛くて這い歩くようであった。
場所によっては、粘土質で固い畑もあって大変であった。固い土の畑には土を軟らかにするために、掘り込みといってソダ木や藁などを畝の中に入れてうない込んだので、その入れ役が一人余計に必要であり手間がかかった。
休み時間には、力試しの石担ぎや相撲取りなどして力比べをしたものである。夕食にはドブロクなどご馳定になり、腰の痛いのも忘れ鼻歌気分で帰ったものであった。
播きもの
野上の小麦は質が良く、野上の小麦でつくったうどんは風味が良く、昔から有名であった。気候風土や土質に合い生育も良く、良質の小麦ができるので盛んに生産されてきた。
昔は、民家の屋根も殆んどが茅茸であり、小麦藁をつかったので藁の需要も多かった。
十月半ばを過ぎると、麦播きの、播きものが始まる。朝早くから種を播くところの畑に鍬で畝きりをするが、素足で仕事をした。堆肥に肥料や油粕などを万能で混ぜて、畝に蒔く元肥をつくった。縄を編んで、造った担架のような形をした、モッコというものに元肥を入れて、二人で担架の要領で畑に運んだ。家畜の馬を使って運ぶときは、これも縄で編んでつくった肥ピクというものを使い、馬の背の両方に振り分けるように造られた肥ピクを使い堆肥を入れて運んだ。馬の背から堆肥を下ろす時には、綱を引くと落ちるようになっているが、その綱を引くタイミングが難しく、下手をして片方が先に落ちてしまったりすると、反対側に荷重がかかり、馬が驚いて大変なことになる。堆肥をいれる時も同様で、慣れないと難しく工夫が必要とされた。
運んだ堆肥を藁で編んだコイヒゴというものに入れて、畝の中に均等に蒔いて種を播いた。種播きは慣れた人が播いた。播く種が、厚く播いても薄く播いても収穫に影響する大切な仕事なので、慣れた年寄りが播くことが多かった。
種は、前日に風呂の残り湯などに浸して、ザルに入れて水分をきっておいたものを播いて、最後に、播いた種に足で土をかけて終わる。
播きものが全部終わると、餅を搗いてボタ餅にして手伝いをして戴いた家に配った。これを、播き上げボタ餅といった。
麦ふみ、日向たて、土入れ
秋に播いた麦も、正月を過ぎる頃には芽も大きく伸びてくる。その頃から方々で麦ふみをする姿が見られるようになる。
厳寒期に入ると、霜柱で麦の芽が地面から持ち上げられてしまったり、また伸び過ぎてしまったりするのを抑制したり根張りをよくするために、麦ふみ、日向立て、土入れ、の作業を行った。寒い北風の吹く中、頬かぶりをして麦の畝を、行ったり来たりして一本畝ずつ踏んで行くので、一人でも多い方が能率が上がるので、子供から年寄りまで総出で麦ふみをした。
また、冬の寒い風を防ぐために日向たてをした。麦の畝を一本畝ごとに鍬でさくって土手を築いて日向をつくり、麦を寒さから守った。他に、麦の根張りを良くするために、麦の頭から土をかける土入れ、という作業も同時に行った。金網のついたジョリンという立鍬で一本畝ごとに土をかけた。根元に土を入れることによって根張りが良くなり倒伏を防ぐために行われた。小麦の他に大麦も栽培されたが、野上地方では主に小麦が多くつくられた。大麦も小麦も、麦ふみ、日向たて、土いれ、の作業は同様に行われた。
作物とコヤシ
戦前、戦後は、化学肥料の製造販売も少なく、また高価であった。戦後は特に少なく、肥料不足の時代があり、あまり使用することができなかった。大豆粕や油粕などの搾った粕が粉砕しないで塊の儘で配給になり、硬くて砕くのが大変だったこともあった。
このような状況下で肥料を補うために、肥やし(コヤシ)として人糞が一役買った時代があった。
農家の便所の多くは屋外に造られ、汲み取りが容易にできるようになっていた。汲み取り用の桶を、ションベン桶といった。長めの桶と板で、作った箱型で柄のついたヒシャクがあり、農家ではほとんどの家で備えてあった。この桶にヒシャクで汲み取り、てんびん棒を使って肩で担ぎ、畑の作物に肥料として施したのである。
年の暮れなどは、どこの家でも便槽をきれいに汲み取って正月を迎えた。麦畑など遠く迄担いで行って施した。てんびん棒で中身の入った桶を担ぐのは慣れないと難しく、てんびん棒の反動に逆らうと調子が狂い、桶の中身があばれだし大変なことになる。
今では想像もできないことであるが、野菜にまで施した。学校などの便所は、農家の人が馬車に大きな桶を積んできて汲み取って行き、肥料とした。当時は汲み取りの業者はなかったが、このようにして処分されていた。
棒うち(ボーヂ)
秋に取り入れた大豆やそばなどは、束にして運んできたものを、軒下や納屋に立てて置いて、一段落してから天気の良い日に庭に立てて、半日位乾燥させてクルリ棒という竹や木で作った自製の農具を使って脱穀した。クルリ棒は、回転させて反動を利用して穀物の穀に打ちつけて実を落とすというもので、慣れないと中々難しく、腕の肘などに打ちつけてしまい痛い目にあったりする。慣れてくると調子にのり面白くなってくる。
野上などの平地では、どこの農家にも広い農作業ができる庭が備えてあり、庭で作業をした。しかし、山間地では斜面に家が建っていて、庭が狭い場所にある家では、クルリン棒は使えないので、庭が狭いなりに工夫し、カケアイのような形をした道具を使って、庭にむしろを敷いてその上で穀物を叩いて収穫した。このように機械が普及するまでは、自製の道具を考案して使い作業をしてきたのである。棒を使って収穫することから、棒打ち、棒打ちが訛ってボーヂと言った。
その昔は、千歯ごき(カナゴキ)で実を落としていたが、足踏み脱穀機が普及したときは数十倍もの能率が上り、農家にとって一大革命であったと思われる。
薪こり
昭和三十年頃までは、野上地内も半分以上の家が茅葺き屋根であった。また、ほとんどの家の台所にカマドが備えてあり、炊事の煮物や炊きものなどはすべてカマドか七輪であり、燃料は薪や木炭、そだ木などであった。
茅葺き屋根は、家の中で火を燃やすことによって、煙から出るタールが屋根の茅に染みこんで屋根が長持ちしたのである。当時は、どこの農家でも葉煙草を耕作していた。水府煙草やダルマ種の場合は、茎ごと刈って屋根裏に竹串を刺し吊るして乾燥させた。台所のカマドや囲炉裏で、薪や根株などを常時燃やして乾燥させた。したがって、薪やそだ木などは木小屋に一年分を貯蔵しておいた。
農閑期の秋から冬季にかけて、小遣い稼ぎに薪こりをしたものである。薪こりの仕事は出来高で賃金が支払われ、働けばその分が金になったので働きがいがあった。薪にするのは松の木が多かった。くぬぎや楢、かしの木等の多くは、炭に焼いた。薪こりは能率給なので、朝早くから夕方遅くまで働いた。道具の鋸や薪割り、ナタなどの歯物が切れないと能率が上がらないので、道具づくりは自然と身についた。
早朝からの重労働なので、腹が減っては仕事にならないので、箱弁当は土方弁当か重箱であった。土方弁当箱は、普通の弁当の箱より三倍位の大きいもので、当時は何処の店にも売っていた。仲間違もみんな同様であった。
炭焼き
木炭は、昔の生活には欠くことのできない大切な燃料であった。
囲炉裏もコタツも、炭火をおこして暖をとっていた。高度成長期を境に、住宅構造も文化住宅に様変わりし、生活様式も大きく変化し電化製品や灯油、 LPガス等の普及に伴って木炭の需要は年々減少していった。しかし、最近は木炭が、違った形で見直され、防臭剤や湿気止めなど、その利用も多様化し、竹炭などを焼く人も増え、炭焼き窯も見受けられるようになった。
以前は、雑木山などは大凡二十年位の周期で切られ、炭や薪にすることが多かった。炭焼きは久慈川を挟んで東方面が主に白炭で、アカメ焼きの生産が多かった。また、久慈川から概ね西方面の地域では一般的な炭で、黒消しという炭を焼くことが多かった。白炭の場合は、炭焼き窯に火を入れて、焼き上がったらすぐに窯口を開けて、真っ赤なうちに窯から掻き出して土をかけて消す。土灰をかけて消すことによって硬く良質の炭ができた。材料の木も、樫の木などの硬い質の木を選んだ。白炭の窯は、面積は小さいが炭を掻き出しやすく窯口を大きく造ってある。この白炭は高級品で炭火が長持ちすることから、茶道やうなぎ店などで多く使われている。一方、黒消し炭は、焼き上がったら前方の焚き口から、後ろの煙突など全部塞いで密封し、二日位して冷めてから炭を取り出す方法で作られ、一般的に使われている炭である。面積の広い山などは、原木や出来上がった炭の運び出しやすい、山の中間あたりの窪地を選んで炭焼き窯を造った。材料は、主に楢、クヌギなどを焼いたが、雑木類は何でも焼いて炭にした。
窯つくりは、窯打ちとか、はち上げ、といって、慣れた経験者で熟練された人達によって共同作業で造ることが多かった。
窯には、出来、不出来があり、出来の悪い窯は火の回りや、煙突の煙の吸い込みなどがうまくいかず、良い炭が焼けずに灰になる部分か多くなったり、また焼け残りが出来てしまったりした。窯の底の部分で、焚き口から煙突までの勾配の関係や、煙突の造り方などによって微妙に左右され、窯の良し悪しができてしまう。
炭が焼き上がるまでに、煙の色が七度変わるといわれ、この煙の色の見分け方も大事なポイントなる。特に最後の焼き上がり前の色の見分け方が、焚き口や煙突を塞ぐ目安とされる。塞ぐのが早過ぎると燃え残り (ネボエ )が出来てしまい、また遅いと窯の前方の炭がほたけて灰になってしまったりするので、炭焼きの一番緊張する時である。
このようにして焼き上がった炭は、決められた寸法に切ってススキの茎で編んだ炭俵に正味、四貫目を入れて縄で結び表装した。炭にも等級があり、炭の検査員がいて、検査を受けて等級がつけられた。等級によって炭の値段が違った。なお、検査を受けて荷札に検査済の証がない炭は、公定の価格での販売はできなかった。
遠い山などでの炭焼きは、山に炭焼き小屋を造り泊りがけで炭を焼いた。秋から始めて来春三月頃まで続けられた。
薬たばこつくり
葉たばこつくりは、農家の現金収入には欠かせない作物であった。野上地内で耕作された煙草は三種類で、黄色種、水府、だるま種が耕作されていた。黄色種(米葉)は主に平地の比較的面積の広い地域で耕作され、土の壁で造られた四角い乾燥場で乾燥した。煙草の葉を一枚一枚の茎を縄に挟んで、乾燥場に何段にも吊るして乾燥させた。レンガ造りの大きいカマドがあり、松の薪を燃やし続けて昼夜の番をし、温度調節をしながら一回分を三日位かけて乾燥させる。
水府たばこは、主に山手に近い地域で耕作されていた。葉煙草の茎から葉を三枚位残して、その上の部分を葉のついた儘、刈ってきて藁で結んで屋根裏に吊るして乾燥した。台所や囲炉裏で薪など燃やして乾燥させた。畑に残された三枚位の土葉は、縄に葉の茎を挟んで天日乾燥とした。
ダルマ種は、茎の葉を全部採ってきて縄に挟んで天日乾燥することが多かった。庭に棚の干場を作って、縄に挟んだ五メートル位の葉煙草を一連ずつ吊るして乾燥させた。ある程度乾燥したら、地干しといって地面に藁を敷いて、並べて干した。大量に干すので、雷雨の時などは二人いないと持てないし、乾いているので葉が欠けてしまうので大変だった。また、乾いた葉の上を猫やにわとりに歩かれることもあり、終わるまで気を抜けなかった。
なお、水府煙草やダルマ種は乾燥した葉を一枚ずつ広げて伸ばす、煙草のし、の仕事があり、元の方と先の方を伸ばす二人一組で煙草の葉のしをした。夜なべの時などは子供も手伝わされるが、単純な仕事なので居眼りが出て手を叩かれながら伸ばしたものである。
伸ばした葉は、均等に重ねて上に板を載せて重石を載せて圧縮した。今度は葉を一枚ずつ等級別に仕分けして梱包する。黄色種も水府種も同じように手間がかかった。こうして商品として出来上がった葉煙草を山方宿駅前の専売公社までリヤカーや馬車などで運んで納付し、鑑定官の鑑定によって等級がつけられて収納した。
正月の苗床っくりから育苗、定植、鍬での土寄せ作業、そして芽掻き、芯切りから虫捕りなど、暑い時期の仕事で大変であった。煙草には、殺虫剤など薬品は使用できないので、虫は一匹ずつ手で捕った。煙草の乾燥も大変だった。特に黄色種の乾燥は、昼夜通しての温度管理などの番をしながらの作業であった。
煙草は専売品なので、畑に定植してから専売公社から植えつけ検査に来て、本数を数えられ多く植えつけであれば、その本数をその場で引き抜かれた。
コーズむき(楮剥き)
和紙が盛んに造られていた頃は、畑の周りなどに楮の木がいたる所に植えてあった。
楮は紙の原料として高値で取引きされ、農閑期の副業として晩秋から冬にかけて楮切りをした。
野上地内でも、数軒の家で楮を扱っていて、晩秋になるとコーズ剥(む)きが始まった。集められた楮の生木を決められた寸法に切って、大きい釜で蒸した。
近所隣りから大勢の手伝いが集まり、蒸した楮の皮を剥いた。コーズ剥きは年の暮れの恒例の行事であった。大きいカマドで直径1メートル以上もある大釜の上に束ねた楮を重ねて結び、大きい桶のセイロを被せて蒸して皮を剥いた。
部屋の土間いっぱいに手伝いの人が集まって皮剥きをした。剥いた楮の木をコーズカラといって、自分で剥いた分は手伝いの代償として家に持ちかえることができた。良く燃えるので、薪などと同様にカマドや囲炉裏などの燃料とした。手伝いの人達はコーズカラが目的でもあった。家族で一日皮剥ぎすると結構な量となり、軒下いっぱいに積まれた。手伝いを受ける家でも、手伝いの人もお互いに助かったのである。
楮が蒸し上がるまでの時間には、楮と一緒に麻袋に入れて蒸したサツマ芋やジャガ芋などが、おやつとして出されて寒い時に暖かいご馳走であり、カマドでは薪が燃やされて寒さ知らずの真冬の楽しい行事であった。
粉挽きとハリッカ貼り
山柿など渋柿の渋をとり、その渋汁で古くなって使えなくなったザルなどに和紙などの紙を貼ってつくった入れ物を、ハリッカといった。粉やゴマなどの細かいものを入れるのに使用した。
梅雨期の雨の日などには、近所同士が声をかけ合って集まり、新しい大麦や大豆を大きな鉄の鍋で妙りあげ、石臼で挽いてキナコやコガシをつくった。石臼にヤリ木を天上から紐で吊るして、石臼を操る人と、ヤリ木を二人で押したり引いたりし、三人がかりで挽いた。ハリッカは、この挽いたキナコやコガシを入れるのに最適であり重宝された。
ハリッカは、古いザルなどに柿の渋を幾重にも貼ってつくった。渋をとる柿は渋味が強い程良いとされ、山柿は渋味が強いので山柿を使うことが多かった。青い渋柿を臼で搗いて、その汁を絞って漉したものを使った。貼る紙は一般の紙ならなんでも使ったが、最後の表面の仕上げには和紙を使った。和紙は丈夫で滑らかであり、袋とじの和紙の本などを和紙のない時には良く使った。柿の渋を使ったハリッカは虫がつかず長持ちした。小麦粉の糊で貼ったものは、一夏過ぎると虫の穴だらけになってしまう。粉類、ゴマやナタネなど細かい物を入れるのに使われた。ビニール製の容器などない時代は重宝された。
また、昔は投網なども絹糸を使用していたので、柿の渋に浸して、三本柱に張って乾燥して使った。糸が硬くなり水切りが良くなるのと、網が長持ちすることで使用した。
昔の井戸と風呂
井戸には、車井戸、跳ねつるベ、他に自然の湧水を利用した井戸で「ゴキイド」と呼ばれる井戸があった。
跳ねつるべ井戸は、てんびんを応用したもので比較的地下水の浅い井戸で使われた。栗の木などの二岐のついた大きい柱を建て、柱を軸にして大きい孟宗竹の中心あたりをアンカーボルトで二岐に取り付け、釣瓶桶を付けた竹を孟宗竹の先に井戸に合わせて付けて、弥次郎兵衛式に重心をとって水を汲み上げた。
車井戸は、深井戸用として地下水の深いところで利用された。木製の大きい滑車を使って、太い、特別に造られた井戸綱の両端に釣瓶桶をつけて滑車に取り付け、交互に汲み上げる方法である。屋根の棟木に滑車を取り付けた。
湧水を利用した井戸(ゴキイド)は、自然の冷たい湧き水どころを利用して作られた自然の井戸で、多くは山際の水源で、直接水を汲み上げて使った。ゴキ井戸の語源はさだかでない。
夏の暑い時期には、井戸にスイカを浸したり残ったうどんなどを籠に入れて吊るしたりして冷蔵庫代わりに利用した。また、井戸水で沸かしたお茶はおいしかった。
毎日の風呂の水汲みは婦人の仕事とされ、手桶に井戸水を汲んでてんびん棒を使って肩で担いだり、手に下げたりして運んだ。風呂桶いっぱいに水を満たすのには大変な量で、女の仕事としては重労働であった。
風日の釜は、一般的にヒョットコ釜が多く使われていた。煙の出る口の部分がヒョットコに似ていたことから通称ヒョットコ釜といっていた。桶の中に薪を燃やす釜があるので、直接触ると熱いので二人で入るのには少々狭かった。また、風呂の湯が冷めてきたときに外風呂の場合、湯が沸くまでに時間を要した。
他に、五衛門風呂があり、この風呂は鉄の釜に直接入るようになっているので、簀子の板を沈めて入らないと熱くて火傷をする。しかし、中に障害物がないのでゆったり入れた。周りが鉄板なので、触ると少し熱い欠点はあったが、残り火でいつまでも冷めない特徴があった。石川五右衛門の釜茄でからその名前がついたと思われる。
昭和四十年代より簡易水道の普及と生活様式の進歩によって、井戸も風呂も大きく変貌した。
ハエとりと蚊いぶし
昔の家の建築構造は、雨戸と障子だけの隙間だらけで、どこからでも蚊や蝿などが入れる構造で、夏になると日中は蝿に、夕方になると蚊に悩まされた。
鍋などの周りや、食べ物などには黒くなる程の蝿が集まってくる。蝿叩きなどでは間に合わず、四角い紙に粘着のついた蝿捕り紙や、吊るして使うリボン型の蝿捕りなどが市販されていて使用するが、一日で黒くなるほど蝿がついてしまう。四角い蝿捕り紙は子供や猫などが踏んでしまうことがあり、一段高いところに置いた。他にガラスで造った蝿捕りで、中に水を入れて置きハエが中に入ると出られなくなり水の中に落ちる仕掛けの蝿捕りもあった。
夕方になると、今度は蚊にせめられる。網戸などなかった時代で、当然殺虫剤もなく蚊の駆除の方法がなく、扇風機などなく暑いので戸や障子は開けっ放しであり、暗くなる頃には家の中は蚊でいっぱいである。当時の蚊の対策として、夕方暗くなる前に軒下で火を燃やし、煙攻めで蚊を追い払った。わざと燃えにくい半生の草などを燃やして煙を家の中に扇ぎ込んで充満させて追いだす、蚊いぶしという方法で追いはらった。菊の葉を燃やすと効き目があるといわれた。しかし、一時的には逃げ出すが、煙がなくなると、また戻ってくるので、蚊のいない僅かな時間に夕食を済ませる。
寝る時は、蚊帳を吊ってその中に寝た。ハエ帳のようなもので部屋全体を覆い蚊を防いだ。各部屋の四つ角に蚊帳を吊る取っ手が下げてあった。蝿とりや蚊いぶし、また蚊帳にしても今では笑い話のようだが、当時はどこの家でも蝿や蚊の出る季節は毎日行われたものである。
ランプのホヤ磨き
昭和二十年頃の電気が導入される前までは、石油ランプでの生活であった。
ランプには、大ランプと手ランプがあった。手ランプは、ブリキで造られた小さいランプで、手に持てるように取っ手が付いていた。小さいので台の上などに置いて使った。
大ランプは、居間などの広い部屋で使うメインの照明であった。しかし、大ランプとは言っても、新聞などを読むのは余程目の良い人でないと見えず、新聞をランプに近づけて見ないと読めなかった。石油を入れる台の部分と、ガラスで造られたホヤという風除けがあり、上には反射板の白い笠が太い針金の枠についていて、吊りさげて使用した。ガラスのホヤは炎の部分が膨れていて、上と下の部分が細くなっていた。一晩灯を灯すと、石油の煤で黒くなってしまうので、毎日磨いた。ホヤの上下が狭まく大人の手は入らないので、ホヤ磨きはもっぱら子供の仕事とされていて、毎日磨かされた。夕方遊びから帰ると、ランプのホヤ磨きが待っていたものである。子供の居ない時は、大人の手は入らないので箸や棒などに布きれを巻いて磨いたが、思うようには磨けなかった。
有線放送
昭和32年に山方町に待望の有線放送(電話)が導入された。当時、一般の黒電話は公共施設(役場や農協等)や商業を営んでいるごく限られたところしか入っていなかった。
有線放送は10戸前後の複数が同じ回線(1回線)になっており、電話番号は各戸違う番号を持っていた。役場に交換室があって常時交換手が勤務していて、一般の家庭から交信があった時に相手の番号を伝えてつないでもらうのである。複数の戸数による回線なのでその回線は全部呼び出し番号が入るので、呼ばれた番号の人が受話器をとる。
しかし、その回線の者は通話中に故意に聞こうとすれば聞こえるわけであり、あまり秘密の話や都合の悪い話はできなかった。
当時としては有線放送は非常に便利で、役場からのお知らせ一斉放送ができ、行事連絡や災害時などの緊急放送等にも利用された。
呼び出しは各家庭の番号を呼び、「1番さん、1番さん」のように2回呼び出した。したがって13番の場合「13番さん、13番さん」と呼ぶが、聞き方によっては「爺さん、婆さん」と聞こえたものだった。
この有線放送も、経済成長と共に各家庭の黒電話の普及により廃止となった。
えましむぎ
現在では麦飯を健康食として雑穀飯などと共に晴好品として健康や美容のために食べるようになったが、戦前戦後は麦飯は常食として食べていた。白いご飯は正月や祝い事の時以外は食べられなかった。当時は白いご飯を銀めしなどと言い、なかなか食べられなかったのである。米は強制的に供出されてしまったので米は貴重であり、麦は米のカテに使われたものである。
大麦は、家でも収穫したものを臼と杵で搗いた。餅搗き臼の3倍位大きい臼であった。杵も同様であった。臼の中にワラで編んだ輪っかを入れて搗いた。麦の粒が杵で搗いた時に良く循環するためである。また、臼の中の麦には水を加えて湿り気を出し、麦がこすれて早く搗けるよう工夫した。
このようにして搗き上がった麦を鉄鍋で半日位トロ火でじっくりと煮た。煮えた麦を、えましざるという目の粗いざるを使って水にさらしたものを米と一緒に炊いた。このご飯が、えましむぎの麦めしである。
子供の頃、暖炉裏の鉤吊しにこのえましむぎの鍋がかけてあり、とろ火でブツブツ煮立っていたものである。学校から腹をすかして帰ると丁度えましむぎがふっくらとふくれて炊き上がっており、茶わんにかき込んで醤油などかけて食べて見つかり、叱られたものであった。お世辞にも旨いものではなかったが、腹がすいているのでご馳走だったのである。
えましむぎの麦めしは、なめなめし、舌ざわりがありおいしかった。えましむぎの麦めしの味も、子供時代の懐かしい思い出の味となってしまった。
火鉢とアンカ
電気や灯油等による暖房器具はなかった時代の昭和30年代位までは、暖房といえば木炭による暖房であった。他には囲炉裏の火位である。座敷ではもっぱら火鉢による暖房で、炭をおこしたものを入れて暖をとった。火鉢には色々なものがあり、四角い木製で内側がブリキで周りは桐の板でできているもの、鋳物の大小のものや土焼きの火鉢、瀬戸焼きもあった。一般的には値の安い土焼きの火鉢が多く使われた。一番暖ったか味のあったのは、四角い桐の火鉢であった。鋳物や瀬戸焼きのものは天端(てんば)や周りが熱くなってしまう。
昭和40年頃まで町の公共施設でも暖房器具はなかったので、職員は机の下に火鉢を置いて手を暖めながら事務をとった。早朝、若い職員達が七輪で上司の分まで炭をおこしたものである。
また、寒い冬の暖房のひとつにアンカ火燵があった。炭をおこして中の皿に入れて使った。囲炉裏に火燵ヤグラを作って火燵にしたのは、昭和30年代以降であった。それまでは土焼きのアンカが火燵として使用された。
しかし土焼きのため炭を入れ過ぎると上部が焼けて熱かった。直接布団を掛けて火健にした。他に瀬戸焼きの湯タンポやブリキで造った湯タンポなどがあり、寝る前に布団の中に入れて暖をとったものである。