野上分教場のころ
昭和三十六年三月までは、野上小学校も舟生分校と共に山方小学校の分校で、野上分校であった。木造の二教室で、校舎と隣接して教員の住宅があり、住宅の一部に事務室が併設されていて渡り廊下で校舎と結ばれていた。
分校は四年生までで、複式の二学級であった。先生は二名で、主任の先生は住宅に家族と住んでいた。複式学級で一年生と二年生が一つの教室で、三年生と四年生も同様であった。一年生の授業の時は二年生は自習であった。三年生、四年生も同様であり、先生も切り替えが大変であった。頭の良い児童は上級生の教科を覚えてしまう子もいた。教科書は国定教科書で何年も内容が変わらないので、進級する時は下級生に譲り、また上級生から譲り受けて使ったりした。
運動場の南側に正門があり、立派な御影石の門柱が二本建っていた。一周五十メートル位の狭い運動場に大きい桜の古木が数本あって、春の桜の花は見事であった。校舎の玄関前には月桂樹の古木と、幹が半分枯れて空ろになった柳の木があって、校舎の前には二宮尊徳の像が建っていた。校舎の裏手に、汲み取り式の便所が渡り廊下で結ばれてあった。便所の近くには山桜の大木があった。
秋の運動会は、区民運動会として野上区民総出で行われ、青年会、婦人会等も一緒になり児童と共に大運動会が毎年続けられていた。岩崎までのマラソンから、土俵を造っての相撲や俵担ぎなどの種目もあって、四集落の対抗競技として行われ、集落と学校が一体となって賑やかに開催されたものであった。
昔は田植えも、現在より一カ月位遅かったので、麦刈りや葉煙草の植え付け、田植えと重なり農家は一度に農繁期を迎え、学校でもこの時期は農繁休があり、農家の児童は決められた期間内は、手伝いのための休みは欠席扱いにはならず、喜んで田植えの苗運びなどを手伝ったものであった。
水稲の苗は水田の中に作ったので、苗に害虫が寄生するので、学校から児童が害虫駆除の虫捕りの奉仕作業に出かけ、苗の上を篠竹の竿で撫でて虫や卵を捕った。捕った量によって学用品など褒美を戴いた。
国民の祝日の、四方拝、天長節、明治節、新嘗祭などの当日は、本校の山方小学校まで歩いて行って式に参加した。式の終了後には、国旗と軍旗の打ちだし模様の入った紅白の米菓子や鰻頭などが配られ、家に持ち帰って仏壇に供えてから食べるようにとの先生からの伝言であったが、毎年のように帰りの途中で腹が減って食べてしまったものである。
五年生からの、本校の山方小学校に通学する方法は、野上の中でも地域によって通学路は異なり、元倉、小屋場以外の生徒の多くは国道を通学路としたが、元倉や小屋場の生徒の多くは、新道から枇杷川経由は遠回りになるため、和田坂や大久保経由で通学した。元倉方面の生徒は、天狗沢から狭い坂道を下って、橋のない枇杷川にかかる飛び石を跳ねて渡った。台風などの大雨の時は、小屋場を通ってジンニンザカから和田橋経由で行った。しかし、夏の少し位の出水の時は、服などを脱いで束ねて向う岸に投げたり、頭の上に結んだりして、みんなで泳いだりして渡ったこともあった。帰りが遅くなった時などは、和田下のお不動様の森を抜けるのが、一人の時は特に寂しかった。
当時の履き物は、ほとんどの生徒が下駄や草履での通学で、通路は整備されていない砂利道であり、特に五、六年生の一時間掛けての登下校は大変であった。
勤労奉仕
昔は、田植えも現在より一カ月以上遅かったので、麦刈りや煙草の植え付けと田植えが重なり、農家は一度に農繁期を迎え、猫の手も借りたい程忙しい時期となる。
学校でもこの時期には農家の児童は、特別に農繁休があって決められた期間内は欠席扱いとされず、喜んで田植えの手伝いをしたものであった。
当時は水稲の苗を水田の中に苗代をつくって苗を育てていたが、苗に害虫が寄生したので学校から児童が寄生した害虫の駆除をする虫捕りの勤労奉仕をするのが例年の行事となっていた。
全校児童で班を編成して出かけ、苗の葉の上を篠竹の竿で撫でて葉の裏側に付いている虫や卵を捕った。捕った虫の数や、葉に産み付けてある卵のついている葉の枚数、また、蛾の数などによって、褒美として鉛筆やノートなどが配られた。当時の在校する児童の殆んどが農家であった。
しかし、当時は誰もが素足でズボンの裾をまくり上げての作業であった。蛭に吸われながらの仕事で、大騒ぎの勤労奉仕であった。
国民の祝日
野上分校の頃は、国民の祝日の四方拝、天長節、明治節、新嘗祭などがあり、当日は本校の山方小学校、現在の山方総合支所まで一年から四年生全員で並んで歩いて式典に参加した。野上から徒歩での四キロの道のりは、特に下級生は大変であった。枇杷側のでこぼこの砂利道を通り、山方宿駅前を抜けて宿通りに入ると、初めて見る洋館風の建物や店が連なる繁華街に驚いたものであった。
学校も大きく、運動場の広さにも驚いた。真ん中あたりに大きい欅の木があったのが記憶に残っている。隣接して中学校もあり、小学校の玄関前には、教育勅語などを安置した洋館風の建物で、鉄筋コンクリート造りの奉安殿という建物があった。
式典が終わると記念として、国旗と軍旗の形が打ち出された紅白の米菓子や紅白の鰻頭が配られた。家に持ち帰って仏壇や神棚に供えてから食べるようにとの先生の伝言であるが、道のりが長く帰る頃は昼過ぎとなり空腹で口を付けてしまったものであった。
今では国民の祝日が多くなり、また昔と変わってしまった祝日もあり、祝日でも国旗を掲げる家も少なくなった。
弁当箱の保温器
昭和十七、八年頃、戦争最中の当時で、野上分教場の頃であった。
学校給食など当然なかった時代で、それぞれ弁当持参であり、弁当箱での弁当が大半であった。真冬でも冷たい弁当をひろげて食べていた。その頃、学校に大きい書類を入れるような木製の戸棚が持ち込まれて廊下に置かれた。
弁当箱を温める保温器とのことであった。戸棚の中は、五段位の金網を張った箪笥のような引出しになっていた。一番下には火鉢を置くようになっていて、火鉢を置くところは引き戸になっていた。金網を張った引き出しの扉は観音聞きの戸になっていた。
金網の上に裸の弁当箱を並べ、下の火鉢には真っ赤におこした炭を入れて弁当箱を温める仕掛けになっていた。学年ごとに一段ずつ利用した。
梅干しで穴の開いたアルミの弁当、ホーローびきの弁当など、形も色もとりどりの弁当箱が並んだ。冬期間、暖かい弁当が食べられ、毎日お昼の時間が待ちどおしかった。
あまり熱過ぎもなく、程よい温かい弁当が食べられるようになった。
父兄による給食
弁当箱の保温器が入ってから、間もなく父兄によるお汁の給食が始まった。
在校児童の母親などが五人位の班を編成して、回り番で毎日お昼に温かいけんちん汁や、浸した大豆を擂鉢で擦ったものを、けんちん汁に入れてつくったゴジルという香ばしくておいしいお汁の給食があった。
校舎と事務室を結ぶ渡り廊下の北側にダルマポンプの井戸があって、その近くにカマドを設置して大きい鉄の鍋でお汁をつくった。
当番の人達がそれぞれ持ち寄った白菜、大根、人参、牛蒡や葱など各家庭で採れた野菜の食材を使ってお汁のけんちん汁をつくり、一晩浸した大豆を準備して擂鉢で、擦った豆乳のようになった汁を、出来上がったけんちん汁に入れてつくったゴジルという美味しいお汁が毎日食べられた。特に冬の寒い時期には温かで、お代わりをして頂いたものであった。
このお汁が当時の給食であり、現在の給食の草分けでもあった。温かい弁当箱に温かいお汁の給食でお昼の時間が楽しみであった。
山方空襲
昭和十六年十二月八日から続いた戦争も、敗色が濃くなってきた十九年の頃より空からの爆撃機(B29)による空襲が始まり、毎日のように警戒警報の半鐘が鳴り響くようになった。
日を追って警戒警報から空襲警報が頻繁になり、学校の授業も校内は危険なので駒形神社の境内や、そっかえり(芝)の山などに授業の場が移り、山から帰宅とされる日が多くなっていった。帰る途中で空襲警報のサイレンや半鐘の音を聞き、山に隠れる日々が続いた。
特に昭和二十年に入ってからは空襲の頻度も激しくなり、ついに七月十日には太田方面からグラマン一機が飛来し、山方宿の上空でロケット弾を発射し六名が死亡しー名が負傷するという空襲による悲劇が起こった。
死亡者の中には東京から戦火を逃れて疎開していた二名も含まれていた。また、同級生で、親友だった長谷川屋の野口誠君も布団を被った儘で亡くなった。駒形平に防空監視哨があり、二十四時間体制で空の監視をしていた。また、山方小学校の北舎の一棟に軍隊が駐留していたので、どちらかを狙ったものと思われる。当日の朝、午前六時頃、長田方面からグラマンという太った形の戦闘機が低空飛行で突然現れ、野上の諏訪神社の上空あたりでバリバリっと機関銃による射撃の音がし、山方宿駅を発車し台の内付近に差し掛かった列車が銃撃によって一名が犠牲になった。このグラマンが再度戻り、山方空襲に及んだと思われる。
七月十七日には日製工場の多い日立市が、太平洋海上からの艦砲射撃によって海岸住民は恐怖におののいた。なお、二日後の十九日には空襲により市内は焼土と化した。
また八月一日には、水戸市が深夜から未明にかけて爆撃機B29百数十機による大空襲に襲われ、市内の大半が焼失した。
灯火管制により電燈は黒い布で覆い光が漏れないようにし、腹に染みわたるようなB29の爆音が消え去るのを待つ夜が続いた。防空壕を掘ったり、縄箒や防火用水を準備し、防空頭巾を被って避難する毎日であった。
暗いハダカ電球に黒い布を被せて、空襲警報が終わるのを息を殺して待ったのを今でも思い出す。
松根油と終戦
二十年八月十五日、この日も茹だるような暑い日であった。今日も五年生以上の男生は交代制での当番で、十数人が組になり松根油採りに道具を担いで、汗を拭きながら歩いて山に向った。
南皆沢の入口あたりの山で、現在のケビン村になっている付近で赤松の大木が繁る山林であった。松の幹にノコギリやナタなどでⅤ型に傷をつけてブリキの樋を取り付けて、受け皿に空き缶を付けて松根油(松ヤニ)採りを三人一組位に分けて作業をした。
この頃、一般の業者等においても、松の切り株を掘って焼き、ヤニの油、松根油を採る作業が行われていて、野上でもお不動様の入口付近に松の根株の集荷所があり、また、西の内集会所前の広場には大量の根株が置かれてあった。終戦後も松ヤニで、真っ黒になったドラム缶が何本か置かれてあった。
この油脂は精製して飛行機の燃料にすると聞かされ、戦争に勝つことを信じ、毎日毎日交代で暑い山の中で汗を拭きながら頑張っていた。
しかし当日の十時過ぎの頃、級の生徒が息をきらして駆けつけて来て、もう松ヤニ採りは止めて、すぐに帰って来るようにとの連絡であった。理由は、ラジオで重大ニュースが放送されるからとのことであった。
全員教室に集まり、不穏な気持で正午からのラジオの放送を待った。天皇陛下の玉音放送で無条件降伏の放送であった。誰も言葉はなかった。長かった、つらかった、苦しかった戦争の終わった瞬間であった。
終戦直後の出来事
終戦から一カ月位過ぎた頃、突然アメリカ兵が見たこともない角ばったシート張りのジープという自動車で、しかも山方小学校入口の急勾配な石の階段を登って来たのである。
MPと大きく白い字で書いた鉄兜を被り、自動小銃を手に持った四人の大きな体をした兵隊が下りて、職員室に向かつて行った。
初めて見るアメリカ人の兵隊である。当時は皆殺しにされるとか、連れて行かれて奴隷にされるなどの噂や憶測もあり、子供にとっては本当に恐れていたので、何に来たのか生きた心地はしなかった。出来るだけ目が合わないように恐る恐る見守っていた。英語の話せる河野恭一先生が通訳したとのことであった。その日は三十分位で引き揚げていったが、一週間ぐらいして今度は五名の兵隊が来て、裏庭にあった倉庫などの検査をして、当時青年学校で使用していた練習用の銃や中学校の剣道の防具、竹刀、薙刀など、中庭で灯油をかけて焼かれてしまった。剣道の面の部分や鉄砲の筒など、燃えない部分などが焼け残っていた。書類なども一緒に焼かれたとのことであった。奉安殿の中から、物置の裏板まで突ついて検査したらしく、天上裏がボロボロに破られてあった。
その後も何回か来るようになり、お互い慣れてきて近づいて来て訳の分からない英語で話かけるようになり、チュウインガムという菓子のような銀紙に包まれたものを頂き、みんなで少しずつ分けて噛んだことがあった。
戦争が敗れて誰もが動揺していた終戦直後の出来事であった。