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ふる里を記憶と写真で綴る昭和・平成


漁 猟

漁 猟


火ぼり漁

 夜に火を灯して漁をすることを、火ぼり漁といった。カンテラに石油やカーバイトを燃やして、その灯りで漁をした。燃料の石油やカーバイトは店で販売されていた。
 石油用のカンテラはブリキでつくられ、丸い缶の両方に石油を吸い上げる細い筒がついていて、筒に木綿の布を通し芯にして火を灯した。主に久慈川や枇杷川の上流で漁をした。
 夜間は、魚も眠っていて行動が鈍いので、ヤスで突いて捕った。火ぼり漁は初夏から夏に行われた。昔は川の水もきれいで、遠くにいる魚まで透けて見えた。また、魚の種類や数も多かったので、色々な魚が捕れた。うなぎ、鮒、かじか、おいかわ、あゆ、バカゾウ、ナマズ、鯉などの他、数多くの魚が生息していた。その頃は雷魚なども生息していた。川の魚ではバカゾウが一番簡単に突けた魚であった。砂利のところにいて、目が光って見えた。
 他に、火ぼり漁で水田のドショウを捕る漁があった。昔は五月頃に、稲の苗を作るのに、水田の中に水苗代をつくって種を播いた。丁度その頃、田植え前に火ぼり漁によるドジョウ捕りが盛んに行われた。
 捕ったドジョウを入れるー斗ザルを腰につけ、針ヤスという木綿針を金具に並べて付けたような形をしたヤスで、カンテラの灯りでドジョウを突くというより叩くようにして刺して捕った。この季節になると、カンテラの灯りが水に映り、狐火のように、火掘りの人が並んで見えた。当時は水田用の長靴などはなく、誰も素足だった。時々谷津田などでは大きな、まむしなどに出会うこともあった。うなぎなどもよく見かけたが、大きいうなぎはドジョウ用のヤスでは針が折れたり曲がったりして、ヤスが使えなくなってしまうので、うなぎ用の特性の針ヤスを作って持参した。
 戦後の石油の買えない頃は、松の根株を掘って油脂化した部分のヒデというものを細かく割って、これを特製の網を作って燃やし、カンテラ代わりにして漁をしたこともあった。しかし、ヒデの場合は入れ物が重いのと荷物になり大変であった。
 ヒデはヤニが多いので良く燃えたが、ヤニの煤で顔が真っ黒くなってしまう欠点があった。が、初夏とはいっても夜は冷えるので、ヒデを燃やしていると焚火にあたっているようなもので、寒さ知らずという利点はあった。


カーボシ漁

 堀や川の水を堰止めて水を全部払い出して魚を捕る漁で、川干しが訛ってカーボシといった。
 昔は、田んぼの中ほどを流れる用水堀の水量も多かった。当時は自然に流れる自然水を利用して稲作をつくったので、それぞれ自分の水田に水を引き込むために、堀に堰を作って水を確保した。五月頃から秋の収穫前まで、夏の間は堰を止めておくので、堰の中には鮒やうなぎ、ドジョウなどがいっぱい住み着いた。
 稲の穂が出揃い垂れてくる頃になると水田の水も不要となり、堰の水も抜くことになり魚も水と一緒に下ってしまうので、堰を壊す前にカーボシを始めるのである。
最初に、止めておいた堰を壊わして水を流すが、全部一度に流してしまうと魚も一緒に逃げてしまうので、適当なところで水の流れをとめて、今度はバケツなどで水を払い出す。水が少なくなってくると、うなぎや小魚が草や藻の中から続々と出てくる。大きい堰になると、うなぎやドジョウなどの他に、鮒やギンバチも生息していた。最後にドジョウ掘りである。泥の中にいたうなぎも、最後には苦しくなって頭を出してくる。
 子供の頃は、夏休みに入ると、まだ田んぼに水が必要な時期に、待ちきれず堰を抜いてしまって、水田の持ち主に叱られたこともあった。


ドクモミ漁

 夏の渇水期の暑い時期に行うもので、毒物を流して川の水を荒らして濁し、魚を一時的に麻埠させて仮死状態にして捕る漁である。毒を入れて川の水を揉んで捕るところから、ドクモミといったと思われる。
 毒の材料は、エゴノキの実を実の入らない青い実のうちに採り、実を臼などで潰したものに囲炉裏のアク灰と一緒に混ぜ合わせて捏ねたものや、他にサンショウやニガキの樹皮を煮詰めたものをエゴノキの実と同様にアク灰で捏ねて拳大のダンゴにしたものをいっぱい作る。これでドクモミの材料は出来上がる。
 このドクモミ漁は、真夏の渇水期で水の流れが少ない時期を選び、また一日のうちで一番暑い時間帯が毒の効き目があった。仲間数人と毒ダンゴを持ち、小川に向かつて暑い最中に出かけ、魚のいっぱい潜んでいそうな場所を選び、場所が決まったら毒ダンゴを投げ込む。これも上流から始めて下流へと流していく。毒ダンゴを投げ込んだらバケツやスコップなどを使って水を動かし、できるだけ水を荒らして隅々まで毒が入るようにする。水を動かしたりして荒らす程、毒ダンゴと水の濁りで苦しくなり効果があった。始めて十分も過ぎると効き目が出始め、最初にウロコのないうなぎやギクなどが先に水面に頭を出し泳ぎ出してくる。特にうなぎはエゴノキの実の泡には弱いようで、水面に頭を出して蛇のように泳ぎ始める。これを出てきた順に網やザル等で掬いあげる。鮒や雑魚類のウロコのある魚は、後から徐々に効いてくる。
 上流から流すので、下流に行く程毒の濃度が濃くなり効き目があった。このドクモミで、捕った魚は、毒の材料がエゴの実やニガキの皮であり、一時的に弱るもので、きれいな水に入れて置くと一時間も過ぎると元に戻り、元気になる魚も多かった。
 自動車のバッテリーなどを使って電気によって魚を感電させて魚を捕る人もいたが、毒モミやバッテリ一等による魚捕りは、いずれも禁止されていた漁法であった。


テビシャギ

 この漁は、川岸の水際の草や藻などの中や、波で削られ土手際がえぐれて窪みができているところなどに潜んでいる魚を、素手で探って両手で挟み撃ちして捕る漁法で、手びしぎが訛って、テビシャギといった。
 川岸などの草や藻の中に隠れている魚を、両手を使って挟み撃ちにして捕った。波で水際のえぐれたところの魚を捕る手法が一番多かった。草や藻の生えたところの魚が捕りやすくて良く捕れた。昔は多くの種類の魚が生息していた。また、魚の数も多く住んでいた。川岸の草の繁みなどには大きい鯰やギクなどもいた。最初の頃は、手探りしていで大きい魚に出会った時は、一瞬ビックリして手を放してしまったりした。しかし慣れてくると、場所によっては面白いように捕れた。
 時には、蟹に挟まれたり、ぎんばち(ギク)のトゲで刺されたこともあった。
 最近では、川で遊ぶ子供はいなくなり、また素手で捕れるほど魚もいなくなった。


ヤスツキ漁

 木製の板で箱型に造った箱の底にガラスをはめ込んだもので、水メガネや箱メガネ、他に水鏡などともいった。魚を捕るための水中を眺める用具で、このメガネを使って水の中の魚をヤスを使って突いて捕る漁法である。
 昔は水がきれいで遠くまで透けて見えたので、魚が泳いでいるのが良く見えた。水中を泳いでいる魚や川底に潜んでいる魚をヤスで突いて捕るもので、カジカやバカゾウ(カマツカ)などは川底にジッとしているので突きやすかった。特にバカゾウは、砂利のところに多く生息しているので突きやすかった。慣れた人は泳いでいる鮎も突いた。鯉の場合は鱗が硬いので難しく、正面から頭を突くのがコツとの慣れた人の話であった。また、鯉などの大きい魚を突くヤスは、特製の大きいヤスを使った。
 メガネで水中を眺めていると、色々な魚が目の前を通り過ぎていく。うなぎなども石の間などから頭を出してくるので、突いてみるが潜るのが速くて難しかった。いろんな魚が生息していて、水中を眺めていると飽きることはなかった。
 今では見られなくなってしまった魚も当時はいっぱい生息していた。特に最近見られなくなった魚は、雷魚、八ツ日うなぎである。また、スナハギやギンバチなども数が少なくなった。 
 現在では透明度も悪く、また魚も昔より数が少なくなりヤスツキ漁は難しくなった。


ヒッカケ漁

 ヒッカケ漁も、ヤスツキ漁と同様に水メガネを使って主に鮎を引っかけて捕る漁法で、熟練した者でないと難しい漁であった。ヒッカケ用の針は、大きい釣り針のような形をした針で、釣り具店で売っていた。 
 仕掛けは、キセルの吸い口を加工したものを竿の先につけ、大きい針三本を錨状に親糸に結んだものを、吸い口に通して固定して作った竿で、水メガネを使って鮎を引っかけて捕った。鮎が引っ掛かると吸い口に通しである親糸が外れる仕掛けになっていた。
 ヒッカケ漁は難しいので、慣れるまでは、待ちびきといって鮎が通るのを待っていて引っかける漁から始めた。浸食を防ぐために川岸などに打った杭、ボングイが岸に並んで、打つであり、その杭の周りなどを泳いでいる鮎を待ち、水メガネで覗いて引っかける。鮎は縄張り区域があり生息する範囲が決まっていて、他の鮎が侵入してくると追い払う習性があり、じっと待っていると必ず一周して戻ってくる。失敗しても時間が経つと同じ鮎が戻ってくるので、いつも通るところに狙いをつけて待ち、針の上を通ったところを素早く引いて引っかける。しかし、結構引くタイミングが難しいものであった。
 ヒッカケ漁には、鮎が通るのを待って引っかける待ち引きと、流れながら泳いで鮎を引っかける流れ引きの方法があった。流れ引きができるようになるには、相当の熟練と経験を要した。


穴づり

 昔は、小川や水田の堀などにもウナギが生息していた。初夏の田植えが終わる頃に大雨が降ると、ウナギが小川や水田の堀に上って来て住み着き、良い穴を見つけて入り込み住み着く。この季節になると、独特の形をした、細長くて底が平べったく広がったビクを担いだウナギ釣りの人を見かけるようになる。
 ウナギ釣りの仕掛けは、ミシン針や木綿針をつかった、一般的には、ウナギ専用の釣り針が売っていたので使用した。大きいウナギの場合は、ミシン針の方が逃げられずに引き上げられた。みつ糸に針をつけ、エサには主にドジョウを使った。細い篠竹の先にドジョウなどエサをつけた針を引っかけて、ウナギが入りそうな穴にさしこむ。穴の中にウナギがいれば、すぐにエサのドジョウに食いつき一気に引き込む。ときにはガニ穴といって、足のハサミの付け根にいっぱい毛の生えた大きい蟹で、ガニと呼んだ蟹のいる穴もある。ガニの場合もウナギのように引き込むが、すこし引いてみると感触でガニだとすぐわかる。相手にしているとエサのドジョウだけ取られてしまう。中々放さないので無理に引っ張ると、ハサミで糸を切られてしまうこともある。
 久慈川など川でのウナギ釣りは、水メガネを使って川底を眺めてウナギの潜みそうなところを探す。川岸の浸食を防ぐためカゴに石を詰めて護岸してある蛇籠でジヤッカゴと呼んだカゴの辺りか、川岸の土手辺りの少しドロ混じりのところに生息していることが多かった。
 川でのエサは鮎を使った。鮎を付けた針の竿を川底に近づけると、ウナギが首を出してくる。何匹も首を出してくるので、どのウナギを狙うかは、針に食いついたらすぐに引き込むので、できるだけ容易に釣り上がりそうなところのウナギを狙うのがコツである。見た目で大きいのを狙っても、ジヤッカゴの中などに引き込まれたら終わりであった。
 多少は小さくても上げ易い場所のウナギを狙った方が無難であった。気長に根気よく粘っていれば何匹も釣れたものである。


下げ針

 田植えの準備も終わり、余分な水を水田から堀に放水する頃になると、小川や堀にウナギ捕りの下げ針を仕掛けた。水田から水が流れ落ちるところとか、水の流れ落ちる堰の下などにウナギが集まってくるので、水の流れ落ちるようなところが仕掛けのポイントであった。
 仕掛けは簡単で、ウナギ針を五十センチ位に切った水糸につけて、篠竹などに結んだものにエサのドジョウを付けて、水が流れ落ちるところや、堰の下などに挿して仕掛ける。夕方暗くなる前に仕掛けるのが良い。ウナギは夜に活動するので、明るいうちに仕掛けるとエサのドジョウが弱ってしまい、ウナギが好んで食べなくなってしまう。明朝うす暗いうちに仕掛けを上げに行く。明るくなると逃げてしまったり糸に巻きついて死んでしまったりする。
 久慈川などの大きい川での仕掛けは、太目の水糸を親糸とし十メートル位に切ったものに、五十センチ位の水糸にウナギ針をつけ、親糸に五十センチ間隔位に均等につけて杭に結び、親糸の先に石を重石として結びつけて、エサは川の場合はドジョウでも良いがスナハギの方が好んだ。マゴタロウ虫が最高とされるが、中々手に入らない。ミミズでは、仕掛け終わって十分も過ぎるとサイ(ニゴイ)が食いついてしまう。 
 釣れそうな場所を見つけて、川岸に仕掛けの杭を打ち、片一方に付けた石をできるだけ遠くに投げ入れて仕掛ける。これを五組位準備して仕掛けた。明朝、暗いうちに上げに行く。杭の糸を引っ張ると魚が釣れている時は感触でわかる。ウナギの他、ナマズや大きいギンバチ(ギク)などが釣れた。大物が釣れた時の感触は最高であった。舟を使っての下げ針の仕掛けは三十センチ位の長い糸の仕掛けで、途中に何か所か重石の石を付け舟から仕掛けを下ろした。
 久慈川の場合は、小川や堀と違って色々な魚が釣れるのと大物が釣れるので、醍醐味が違った。


カジカ押し漁

 カジカ押し漁の道具は、二メートル位の木を二本使って、五十センチ角位に板を張り、板の真ん中あたりに足をかける穴をつくって押し板とする。他に八十センチ角位の四ツ手網と、捕れたカジカを入れるー斗ザルを準備すればカジカ押しの道具は完了である。
 カジカ押し漁は、久慈川などの流れの速い川瀬で漁をするので、川底の石や砂利が滑るので、アシナカ、別名イボッキリという短い爪先だけの草履を履いて漁をした。この漁は一人での作業は余程慣れないと難しく、一般的には二人組の共同で漁を行った。板押し役と四ツ手綱に捕れたカジカをいれるザルの役で、ザルは押し板につけるか腰につけておく。
 板押しは、四ツ手網にタイミングを合わせ、カジカを網に追い込むように押す。上部の二本の木をしっかり握り、波に逆らって水圧を利用してグリグリ川底の石を動かして下流の四ツ手網に追い込み、入ったカジカは素早くザルに投げ入れる。
 この漁は、流れの速い川瀬で水をさえぎり、板の穴に爪先を入れて砂利を動かして漁をするという非常に体力のいる漁法であり、交代でやらないと大変であった。また、押し板と四手網の呼吸を合わせることが大事な漁であった。
 このカジカ押し漁をすることによって、川底の石や砂利を動かして鮎のエサとなるノロを落としてしまうため、鮎の友釣りにとってよくないということで禁止となった。


バカゾウつり

 バカゾウは、久慈川など大きい川の小石や砂利などの、比較的小さい石のところを好んで生息していた。小石混じりの砂利層で流れのあるやや深めのところに住んでいた。
 川岸の竹薮で、適当な青竹を切ってきて釣竿にして仕掛けをつくった。青竹の先に直接釣り糸を付け、釣り針はバカゾウ針といって普通の鮒釣りの針より少し大き目の釣り針が売っていた。バカゾウはハゼに似ていて口が大きいので、普通の針では飲み込まれてしまうので大きい針を使った。重りに小石などをつけ、浮きはつけずにミミズや川虫などをエサとして仕掛けた。カワゲラの幼虫が一番良く釣れた。仕掛けを五本位つくって挿して置いて、浮きがないので釣れているかどうか判らないので、適当な時間帯で片一方から順に竿を上げていく。しかしバカゾウという魚は釣れていても全く手応えがなく、デレーと着いてくる。釣りの醍醐味は味わえない。このような動作から、バカゾウというまたの名がついたのか。本名は、カマツカという。
 場所が良いと結構釣れたが、あまり美味しい魚ではない。


ズーコンづり

 終戦後の昭和二十年代に流行った釣りで、一時的ではあったが夏休みなどは大勢の子供達で毎日のように、久慈川はズーコン釣りで賑わった。
 この釣りは、釣りの中でも最も簡単な仕掛けで、最も良く釣れた釣りであった。釣り竿は1メートル位の竹の枝を使い、竿と同じ位の長さの道糸に、針は毛ばリを使った。普通の鮒針に川虫をエサにつけても釣れた。毛針五本位を十センチ間隔位につけ、浮きも重りもっけないでそのまま、竿ごと水の中に入れて釣る。ザー頭などの流れの速いところで、仕掛けごと川の流れに流して、出したり引いたりする。同時に、片方の足で川底の砂利を動かして、すこし濁すと更に効果があり面白いように釣れた。
 上流の方で雷が鳴り出し、雨が降ってきそうな時などは特に釣れた。子供達が集まり並んで釣ったものである。短い竿をグイグイ引く感触は何とも言えなかった。釣れるのは主にオイカワで、地方名でイカリメとかピンカリメ、或いはニガッチョメといった魚が釣れた。他に、鮎やウグイの稚魚なども釣れた。一時間も釣れば結構いっぱい釣れたものであった。
 竿をだしたり引いたりして釣ることからズーコン釣りとか、ザー頭で釣るところからザーコン釣りなどと言った。
 しかし、このズーコン釣りを大人の人がやっている姿は、あまり格好のいいものではなかった。


石タタキ漁

 石タタキ漁は、魚捕りの中でも手ビシャギと同じく最も原始的な漁法である。
 漁をする道具としては特別な仕掛けなどなく、大きいハンマーがあれば最高である。大ハンマーなどなかったので、もっぱら川の大きい石を道具とした。小川などの大きい石の下には、カジカや雑魚(ザコ)がいっぱい隠れていた。あまり大きい石の場合は効果がないので、子供が二人で動かせる程度の中間の石を選んで持ち上げ、上から落として打ちつける。ハンマーがあればハンマーで石の上部を思いっきり叩く。石の下に潜んでいる魚が打ちつけた時の振動の衝撃で、一時的に気絶して浮き上がる。素早く石を除けて、仮死状態になっている魚を捕る。捕るというより魚を拾って捕る。ゆっくりしていると本気づいて逃げられてしまう。中には衝撃で目が飛び出たり、内臓が破れたりする魚もいた。
 現在では、魚が少なくなり、また石の下を住家としているカジカ類も少なくなり、この漁もできなくなった。昔は、沢川などで子供達がよくやっていた石タタキ漁である。


ドジョクすくい

 水田に水を入れるために、水田の周りには水路や堀があり、田植えの季節になると堰止められ常に満水となっており、草や藻などが繁茂し魚の生息場所となっていた。
 現在では水田も基盤整備が進み、小川や堀も大きく様変わりしてしまい、ドジョウすくいをする場所も少なくなってしまった。
 農家にはどこの家にも穀物などを入れるザルで、ー斗ザルという大きいザルがあった。子供達は、この大きいザルを持ち出して腰まで水に漬かつてドジョウすくいをしたものである。
 捕れる魚は、主にドジョウが多かったが鮒やうなぎも捕れた。ギンバチなどが捕れることもあった。
 今ではあまり見られなくなったが、水田の堀などにはメダカが水面いっぱいに泳いでいて、近づくと足音で一瞬に水中に散ってしまい、すこし過ぎるといつの聞にか水面いっぱいに戻っていたものであった。
 ドジョウすくいは、始めると追い目になって夢中で、ドジョウをザルに追い込み、ザルの渕が壊れているのも気が付かず夢中になり、帰って叱られたものである。
 昔は、麦飯を炊く前に、大麦を囲炉裏やカマドなどで半日位の時間をかけてじっくりと鍋で煮込んだ。エマシ麦といって、ご飯を炊くとき米と混ぜて炊いた。このエマシ麦を洗ったり漉したりするザルを、エマシザルといった。エマシザルは水の切れがよくて手頃の大きさで、ドジョウすくいには最適なので持ち出して使ったりして叱られものだ。


うなぎ鎌漁

 夏の渇水期に備えて、水田用の水を貯めておく溜池が各谷津ごとに造られてあった。野
上地区でも、笠敷の溜池をはじめ十か所位の溜池があった。
 渇水期に、水田の水がなくなると溜池の水門の栓を抜いて水田に入れた。堰下全体に水が行き届くように、池の水を全部抜くことが多かった。池の中には、一年かけて育った鮒やうなぎなどが数多く生息していた。特にうなぎが多く住んでいて、池の水がなくなると集落の人達がザルや網、バケツなど持参で魚捕りにやってくる。泥が深く、腰まで泥に漬かっての魚捕りである。漁うなぎが多いので針ヤスで突くのが一番捕れたが、泥の中に潜っているうなぎを捕るウナギ鎌という特殊な道具があって、泥の中にいるうなぎを引っ掻き回して引っ掛けて捕る漁具で、泥の中で見えないうなぎも大量にとれた。
 上手な人は素手で掴んで捕る者もいた。-
 大勢の人が泥の中を歩き回るので、うなぎも苦しくなって泥の上に頭を出してくる。他の人の周りばかり眺めていて、自分の足元に頭を出しているのに気が付かず捕られてしまうこともあった。
このように泥の中で発揮したのが、うなぎ鎌であった。


落ち鮎のコロガシ漁

 秋も深まり鮎の産卵期なると、落ち鮎のコロガシ漁が始まる。鮎が産卵のため川瀬に卵を生むため集まるのを、セヅキといった。
 昔は、久慈川も水量が多く川幅も広く、ゆるやかな流れであった。魚も他種多様で、鮎などは群をなして泳いでいるのが川岸からも見えた。以前は小貫方面に渡る橋はなく、舟で渡った。渡船場があり小貫側に渡し船の船頭さんがいて、大声で怒鳴ると舟を漕いで来てくれた。片道十円位で渡してくれた。
 夏になると、釣り場には鮎の友釣りの常連が大勢集まった。当時は自分で作った釣竿が多かった。カラッツネでアシナカを履いて、どの顔を見ても真っ黒に日焼けして目だけがギョロギョロ輝いていた。一日に一度は川に行かないと落着かないという常連達ばかりであった。
 秋の彼岸を過ぎると一段と涼しくなり、そろそろ落ち鮎の季節となる。雄鮎の腹部が赤みを帯びてくると、産卵も近くなる。浅瀬で流れのさらさらした小石のところが産卵に適しており、産卵が始まると、雌の数倍もの雄鮎があつまってくる。腹部の赤くなった雄鮎は、夏川のような容姿はなく、痩せこけて肌はざらざらとなって頭部ばかり大きく感じられるようになる。
 鮎の産卵で集まるのをセヅキといった。このセヅキの場所を見つけると、コロガシ漁で一晩に数キロもの漁をする者もいた。夕方から夜にかけて鮎は産卵の場所に寄ってくる。北の空が晴れて寒い北風が吹くような夜は、漁が多かった。
 夜になると、どこからともなく釣り人が集まってきて、暗闇の中で一本竿を振り回しているので、隣の人の背中や、竿の糸に引っ掛けてのトラブルはしばしばであった。晩秋の十一月頃まで落ち鮎のコロガシ漁は続いた。
 現在では、縄張り漁をする箇所は増えたが、落ち鮎のコロガシ漁をする人は少なくなった。


イタチのバッタ罠

 終戦後一時的に毛皮が流行り、襟巻やコートなどが若者から年配層まで珍重された。
 イタチ、ウサギ、タヌキなどの毛皮が高価で売れた時代があった。特にイタチの毛皮は高価で取引きされた。ミンクのコートなどはご婦人方にとって高嶺の花で、キツネやタヌキなどの襟巻をしていると金持ちに見えた。
 中学生時代に、友達と小遣い稼ぎにイタチ捕りに挑戦したことがあった。自分達で簡単に取れる方法として、バッタ罠の方法を選んだ。赤松などの若木を七十センチ位に切ったものを藤蔓などで簀子状に編んで作り、イタチの来そうな場所に仕掛けた。山手の谷津田の一番奥辺りが、イタチの来る最良の場所であった。好物のドジョウを餌にし、罠の奥の方に吊るしておく。イタチが来て食べようとしてドジョウを引っ張ると、罠の簀子が落ちる仕掛けになっている。罠の簀子の上には田圃の土などが載せてあり、圧死するという仕掛けである。罠を五か所位仕掛けておき、早朝暗いうちに見回りに行く。冬の厳寒期なので寒くて大変ではあったが、一朝に三匹捕れたこともあった。しかし、全く捕れない日の方が多かった。毛皮は十二月から二月位までに捕れたものが最高とされた。それより先でも後でも値打ちが下がってしまった。皮に青味が出たり、毛の艶が悪くなったりして安値となる。
 皮の長さが二十インチ以上の皮は、当時で一枚三百円位で売れた。ちなみに、その頃で勉強机が二千円位であった。
 イタチ猟は、甲種の狩猟免許がないと捕ることはできなかった。なお、バッタ罠は当時も狩猟免許があっても禁止されていた罠であった。


野うさぎのヒックグシ罠

 雪の降った朝などは、家の近くまで野うさぎの足跡が点々と、どこまでも続いていたものであった。足跡を辿って雪の中、うさぎ追いをしたものである。冬から春にかけて食べ物がなくなると、畑に出てきて麦を食い荒らされた。最近は雪が降っても、あまりうさぎの足跡が見られなくなった。狐などに食べられたのか、野兎病などによって死滅したのか、激減してしまった。
 終戦後の、食糧事情の最悪の時代には、肉は店にもなかったので滅多に食べられなかった。家で飼っている鶏の肉なども年に数回で、それも卵を産まなくなった鶏をつぶして食べる程度であった。肉は貴重品であり、野うさぎの肉などは高級品であった。
 そのような状況下で、野うさぎ捕りの罠の仕掛けが流行った。仕掛けは簡単で、針金の十六番線を使った罠をつくる。針金を軟らかにするのと、臭みを消すために藁などを燃やして焼きを入れ、輪をつくってヒックグシにして捕った。野うさぎは通り道が決まっていて、キツネや犬などに追われるなどの余程のことがない限り同じ道を通った。この習性を利用して、通り道を見つけて仕掛ける。通り道はいつも行ったり来たり通っているので足跡などできれいになっていて、通り道だとすぐ判断がつく。林や薮などはトンネルのようになっていて、邪魔な草や木などを噛んだり、また、通り道の枝などに毛が付いたりしているのですぐに判った。 
 仕掛けの輪の大きさは、うさぎの頭に合わせて、握りこぶしがやっと入る位が丁度よく、大き過ぎても小さくても失敗した。高さは地面から五センチ位がよかった。立ち木を曲げて固定し、うさぎが罠にかかって暴れると外れて宙に跳ね上がり、首が絞めつけられるように仕掛けてあった。材料が針金だけなので、通り道に何か所も仕掛けたこともあり、また、野うさぎの数も多かったので結構捕れたものであった。


バナースペース