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ふる里を記憶と写真で綴る昭和・平成


信 仰

信 仰

厄落とし

 男性は四十二歳、女性は三十三歳が本厄とされる。女性は派手なお祝いはしないが、男性の場合はほとんどの人が何等かの形でのお祝いをした。
 男性は、人によって異なるが豪華に祝った人もあり、集落から親戚、友達など大勢招い
て盛大に厄落としのお祝いをした。家で細やかに祝う人、料亭などで豪華に祝う人それぞれである。
 昭和五十年当時の厄落としの例をあげてみると、同級生全員で行うこととし、代表二名で宮司宅に出向き、該当者の氏名と、生年月日を記載した名簿を持参し、厄払い当日の祈祷を依頼した。
 一月十四日の厄落としの当日、時間は午後一時に諏訪神社に集まり、一堂に会して御祈祷をした。祈祷料として一人当たり二千円とし、他に車代三千円でお願いした。
 厄落としの儀式には、それぞれ男女の子供達を依頼したが、平日であったので前もって野上小学校に出向いて、該当する児童の一時間位の休みをお願いした。厄落としの落とす金額と内容は統一し、十円玉で四十二枚とし、晒しに包んで、子供達と一緒に祈祷に向う途中、境内の参道で落とした。子供達には、それとなく話してあるので今か今かとついてくる。
 依頼した子供達には、統一してお祝いとして、のし袋に三千円を入れ、その他一括して発注し準備しておいたケーキをあげた。集まった子供達には、みかんー箱を蒔かずに均等に分けてあげた。小学校には、初老祝いとして三万円を寄付する。ロッカー書籍箱等は毎年初老祝いで戴き、置く場所がないとのことなので、必要なものを自由に購入できるように現金とした。
 記念事業として、全員による二泊での伊勢神宮参拝を実施した。


八丁じめ(一月と八月の十八日)

 八丁じめは、年二回一月十八日と八月十八日に行われるもので、嵐除け、魔除けとして続けられてきた。
 当時は、上の原と西の坪中で行われ、差し板制の当番で実施されてきた。藁ツトにお札を巻いて、新しい青竹の笹枝を三節位残したものに、藁ツトのお札を結んで下げたものを、上の原は県道の十文字、西の坪は諏訪神社南側入り口の角付近と、それぞれーか所ずつ二か所に立てた。
 この行事は、いつの頃から行われてきたのか分からないが、集落で代々受け継がれ実施されてきた。集落の入口付近に立てられるところから、集落の災難や疫病を入口で阻止し、併せて無病息災を祈願したものと思われる。当番になった家では、上の原と西の坪の各戸を回り、昭和六十年当時で三十円をお札代として集めた。
 代々、西の坪の野上寿一様宅に諏訪神社の神主より、ご祈祷したお札が届けられてあった。しかし、若い者には藁ツトの作り方などはできなかったので、毎年、野上家で一式を二組作って準備してくれた。
 先代から次代へと代々引き継がれてきたが、最近の若者の信仰心の遠のく中で、更に戸数の急激な減少などにより、平成十年に廃止となった。
 現在でも続けられている地域もあり、時々見かけることがある。所によっては、お札を竹に挟んで立てるところもある。



地蔵講(子安講)

 子安講ともいわれ、安産祈願と子供の健やかな成長を願って行われる行事である。
 元倉地域では、カシマ講などともいっていた。地域の婦人達が集まり、米や金銭を出し合い、宿は持ち回りとして行われてきた。二月十五日を目安に相談して実施された。餅を搗き、小豆餡をつくってアンコ餅にし、他にご馳走をつくって、お供え餅と安産祈願の木札、二岐の木を削って造ったものに、奉納安産祈願・子安講元倉坪中と奉納年月日を書いて子安地蔵に奉納祈願した。
 子安講祈願の代表的な子安地蔵は、諏訪神社南の道路沿いに小高い塚があり、石の地蔵尊が祀られてあった。塚の上には樫の大木が生繁り、地蔵尊の前には二岐の木で造られた安全祈願の木札が、古いものから新しいものと重なり合って奉納されてあった。中には二岐の大根なども供えられてあった。
 この地蔵尊の塚は、道路拡張改良工事によって削り取られて道路敷となり、現在は同場所の北側の道路沿いの小高いところに移設されてある。



天神講

 学問の神、天神様のお祭りで、二月二十五日に行われた。
 元倉地区には、天神講などお祭りの行事は行われていなかった。当時、原地区では毎年恒例的に天神講が行われていた。同級の友達からの誘いで原地区の天神講に参加させてもらったことがあった。
 米二合を持参しての参加であった。原地区以外からの参加は一人だけであり、特別参加で飛び入りの参加であった。
 半紙を四枚位糊で継ぎ合せて貼り、奉納・北野天満天神宮と、自分で毛筆を使って大きく書いた紙を糸で結び、のぼり旗をつくって篠竹の先につけ、それぞれ旗を担いで天神山に行った。当時は流田をシモッパラといっていた。その手前から山に入り、松林の道らしい道のない山道を登り、眺めの良い頂上に出て、松の林を少し行ったところに、白い岩肌が一帯に露出した山の頂に出た。ここが天神山であった。
 頂上付近に、石で造られた小さい耐があった。
 持参したのぼり旗を立てて奉納し、学問の向上を祈願した。天神山の奉納祈願も済んで、再び、松林の急な坂道を下って帰った。宿の家に帰って、友達の母親達が数人集まりつくってくれたお昼の会食が楽しかった。ご飯は五目ご飯であった。これが美味しかった。人参、ゴボウ、それに芋ガラが入っただけの五目ご飯であったが、当時としては大変なご馳走であった。
 昭和十八年当時で、食糧事情も最悪で非常時の時代であった。 


幟奉納

 奉納・諏訪神社、陰陽神社、金砂神社と晒の布に書いて幟旗をつくり奉納するもので、三月十五日に諏訪神社に奉納した。 
 この行事も、差し板による当番の家で行うもので、上の原と西の坪の各戸を回って晒代として、昭和六十年当時で三十円を集めて晒の布を購入し、幟旗をつくり旗の上部に横書きで奉納と書き、その下には縦書きで、眞中に諏訪神社、右側に陰陽神社、左側に金砂神社と書き、上野原、西の坪中と年月日を書いて幟旗にして持参し、諏訪神社拝殿入口の格子戸に結んで下げて奉納した。他に手洗い所(お清め所)にも供えた。
 お賽銭を供えて、両坪中の家内安全と、無病息災を祈願した。 
 この幟旗奉納行事も平成の初め頃まで続けられてきたが、八丁じめと同様に廃止された。 


十三詣り

 数え年十三歳になると、村松山の虚空蔵尊にお詣りに出かけた。十三詣りは戦前までは旧暦の三月十三日とされていた。子供達にとって楽しみの行事であった。
 昭和の初期は、常磐線で石神駅(現在の東海村駅)で下車し、歩いて村松の虚空蔵尊様まで行った。阿漕ヶ浦沼のほとりを通って行ったが、石神駅から村松山までは結構距離があり大変ではあったが、当時は誰もが歩いてお詣りした。
 祈祷が済んでから、海岸までの長い砂浜を歩き、やっと辿り着いた時の、初めて見る海に感動したものであった。当時の十三詣りのお土産は、海で拾った貝殻と、名物のあられの入ったきれいな飾り物の米俵であった。


天祭り

 上の原集落には雷神様があって、毎年四月に天祭りが行われてきた。
 現在では、諏訪神社の境内に社が移設され祀られてある。雷神様は昭和の中頃までは上の原の、十三塚近くに安置されてあった。入口には鳥居もあって、長い参道の奥の小高い塚の上に社が安置されてあった。
 雷神様の祭日は、春と秋の二回行われた。春季祭礼は四月十九日に、秋季祭礼は九月二十七日で雷神様あった。天祭りは四月十九日に行われ、差し板による当番の家が役にあたり、昭和の後期の頃で、一戸あたり米一合と御神酒代百円を集めた。
 天祭り当日は、当番の家では両隣りの手伝いをうけて、米の粉で餅を搗き(うるち餅)、蒔き餅と、大きい供え餅をつくった。その他、煮しめや茶菓子、御神酒などを準備した。米の粉でつくる餅は、臼で搗くので手聞がかかり大変な仕事であった。当日午後四時頃に当番の人達は先に行って準備し、坪内の人達が集まるのを待った。餅や御神酒を供え、雷除けと五穀豊穣を祈願し酒を酌み交わした。子供達も大勢集まり蒔き餅が配られ、子供達にとっても楽しい行事であった。
 普段、顔を合わせることの少ない者同士が集まり、世間話に花が咲き遅くなるまで酒を酌み交わした。


お不動様

 お不動様のお祭りは、旧暦の六月二十七日であり、夏の宵祭りには、いっぱいの灯篭が並んで大勢の参拝の人で賑わった。
 お不動様には、冷たい水が湧き出ていて、丸太を削って造った水樋が設置されていて、年中冷たい湧水が絶えず流れ落ちている。
 社は、羽場地区に集落センターが建設されるまでは、羽場、新道地区の集会施設としての役割も果たし、両地区の憩いの場でもあった。
 野上小学校は分校だったので、五年生からは本校の山方小学校に通学となり、距離があり、夏などは一時間位かけて枇杷川を通り、急な大坂(マザカ)を上り終わると必ず、お不動様に立ち寄った。まず、冷たい水を飲んで生き返り、顔を洗って冷たい水に足を浸して一息ついたものである。夏の暑い時期は毎日の日課であった。また、一般の人達もお不動様の湧水には癒されてきた。


観音様

 元倉地内に観音様の御堂があり、昔から子安の神として多くの婦人方から信仰され親しまれ、内外からの参詣客も多く栄えてきた。大祭日は旧暦の八月十七日で、春季の天祭りは四月十七日であったが、現在は新暦で行われている。
 昭和二十年頃までは元倉集落の戸数も全戸で二十戸位あった。
 観音様は、元は坪井家一族の氏神として管観音様理されてきた。隣接して山林も保有しているが、坪井家で管理していた。地区に集会施設がなかったので、観音様の御堂が集会の場として利用されてきた。元倉集落の相談事から新年会など、すべて集会所的な役割を担ってきた。
 このような実状から集落全体の施設に改め、屋根など茅葺きから現在の屋根に改修するなど整備され、集落の施設として管理されるようになった。
 旧暦の大祭日は、当番の世話人達が朝から集まり、宵祭りの準備などで忙しかった。宵祭りに正面に掲げる角型の大きい灯籠や、小さい角灯籠の張り替えなどの準備で忙しかった。張り替えた灯籠には、夏休みで大勢の子供達が集まり、思い思いの絵や文字などを好き勝手に書いて楽しんだ。夜になると灯籠の灯が、十三塚のあたりまで点々と灯り、幻想的であった。
 なお、当日には新道のお不動様から大きなホラ貝を借りてきて、ご祈祷を受けた幣束を纏いのようにいっぱい付けたものを担いで、ホラ貝を吹き鳴らしながら元倉集落の全戸を清めて回り、無病息災と家内安全を祈願して歩いた。また、纏いの幣束を戴いて神棚に供えたりした。子供達も吹いてみるが、ホラ貝は慣れないと中々音が出てくれず、子供の時にウンコを食べた人は音が出ない、などと大人の人にからかわれたものであった。子供達も大勢でぞろぞろついて回った。
 観音様の正面には広い芝生があって、大祭日にこの広場に舞台を造って浪花節などが行われ、近郷近在から参詣客が訪れ盛況に行われたことがあった。記憶の中では大子町の浪曲師で、東家伯燕という師匠で、曲師は目の不自由な女の人であった。
 当時は御堂の周りには、黒松や椿の大木が生い繁り欝蒼としていた。中でも目通り周囲三メートル程もあり、幹には大きいコブだらけのサルスベリは見事であった。平成二年頃までは辛うじて花も咲かせていたが、残念ながら枯れてしまった。
 四月の天祭りには、世話人の家でウルチ餅を搗いて蒔き餅をつくり、他に煮しめなどの料理も準備され、御神酒と一緒に神前に供えられた。一戸ー名が参加して御神酒を酌み交わし、子孫繁栄と家内安全を祈願した。集落の人が集まる絶好の神事で、常日頃、顔を合わすことの少ない者同士の、コミュニケーションの場でもあった。
 子供達も春休みで朝から集まり、諏訪神社から世話人が借りてきた太鼓を、庭のアセビの木に備え付け、交代で順番に叩いた。夕方には蒔き餅や菓子などが配られ、いっぱい戴いて帰った思い出に残る楽しい祭りであった。


神輿と雨乞い

 野上地区には、立派な屋台(山車)は備えであるが、何故か神輿はなかった。
 聞くところによると、野上地区で神輿を造ったりもんだりすると、災いを招くと伝えられてきたとのことである。このことから想像すると、昔は神輿があって、災いが生じて神輿を置かないようになったと考えられる。
 以前、小学校の運動会のときに、ダルマ神輿を造って運動場を担いだことがあった。好評をうけ盛会に終わったが、年寄りに注意され一回だけで止めてしまった経緯がある。
 夏の渇水期になると何日も雨が降らず、農作物が旱魃によって被害をもたらすことがしばしばあった。このような時に、雨を降らせる手段として雨乞いを行った。陰陽神社の祭礼用の神輿を若衆達が持ち出し、深夜に気づかれないように野上まで持ち帰り、諏訪神社の拝殿の前に安置した。翌日に氏子総代や陰陽神社の世話人が相集まり相談し、雨乞いとなり、一晩中野上全域をもみ歩いた。当時は若い者が一軒に二人位はいたので、担ぎ手は大勢いたので盛大な雨乞いとなる。休憩度に御神酒が供えられ、ご馳走は出るしで若者達にとってはこたえられない行事であった。
 以前は、たびたび行われてきたようだが、平成二十五年頃の雨乞いに参加したことがあったが、翌日の夕方に雷による大雨が降り効果覿面で旱魃から免れ喜ばれた。一晩がかりで苦労して陰陽神社から持ち出した甲斐があり、安心したものであった。
 しかし、老朽化していた神輿は、その時を最後に壊れてしまい、雨乞いも最後となってしまった。
 このような、陰陽神社の神輿による雨乞いは、幾度となく行われてきたとのことであるが、神輿を担いでの災いは全くなかったとのことである。


三夜様

 旧暦の八月は十三日が三夜尊の夜まちで、原集落の世話人が御灯明の灯籠貼りなど準備した。灯籠には、子供達が文字や絵を書いたりして三夜尊の軒先に備え、夜を待った。
 夜になると、世話人がお参りに来た人達を出迎え、お神酒の接待をしながら二十三夜の月の出を待った。しかし、二十三夜の月の昇るのは夜半であり大変である。
 昭和の中頃までは、二十三夜尊は手前の交差点のところに安置されてあった。また、三夜尊と隣接して、太い丸太の木で造られた三本柱の火の見櫓も建てられてあった。
 車の普及等に伴い、道路の拡幅改良工事により三夜尊は現在のところに移設され、火の見櫓は上町交差点の現在の場所に移設された。以前の消防詰所は、踏切を渡った辺りに建てられてあった。


弁天様

 弁天様は、大蓮寺墓地の西に位置し、以前の弁天様は周りが池に固まれ、赤く塗られた社があった。正面には立派な鳥居があり、弁財天の額も掲げられてあった。
 池の水も涸れることなくいつも水を満々と湛え、水辺にはセキショウの株が繁り池の周りを覆っていた。夏の祭日には、宵待ち(ヨマチ)で、灯籠がいっぱい灯り参拝者で賑わった。
 平成に入り、県道山方門井線の改良工事等によって水源も涸れ、社も草の中に埋もれ、昔の面影はなくなってしまった。
 しかし、平成二十五年頃に上町集落の浄財によって社も立派に復元され、コンクリートの参道も施工された。


雷神講

 雷神様は、上の原地区内の雷神様信仰愛好者が相集まり行ってきたもので、春季と秋季の2回実施されてきた。現在、諏訪神社境内に安置しである雷神様は、昭和の時代まで上の原に設置祀られていた。
 昭和30年代は15名位の愛好者があり、各自持回りの宿とし行われてきた。宿では赤飯、そば、うどん、天ぷらや煮しめなどをつくり、他にさしみ、煮魚などでいっぱいの料理が並べられた。会費制ではあったが、2,000円程度で魚代位であった。その他、会員は米2合を持参し雷神様に供えた。床の間には別雷皇太神の掛軸を掛け、御灯明のローソクを灯し、御神酒と当日のご馳走も供えられ、雷神の静安と五穀豊穣を祈願した。
 宴会は供えられた御神酒から始める。講のきまりとして清酒1升位とされた。しかし、世間話に花が咲き毎回盛り上がり、結局3升位飲んでしまうことはしばしばであった。農業、職人、勤めの人など職業もさまざまで、年に2回の講であり、情報交換の場として、またコミュニティの場としても最高の楽しみの場であった。個人名義の積立て貯金もあり、1人ずつ預かり、額は決まっていないので自分の懐次第でお願いする。当番の人が集めて郵便局に積立てた。
 いつの頃から講が発足して続けられてきたのかはさだかでないが、掛軸に入れる桐の箱には昭和7年寄贈井坂栄助君と記されてある。この頃から講ができたのか、または箱が古くなり以前からあったものを造り替え寄贈されたものかはわからない。
 昭和40年代まで10数名の愛好者で行われてきたが、その後7名の講員で細々ではあるが実施されてきた。年々高齢化し準備する宿の負担も考慮し、丁度元倉に料理店が出店されたのを機会に宿回りは廃止し、5,000円の会費制として例年どおりの春と秋との2回とし、料理店で行うようになった。予約や手配、会員との連絡等は今迄どおり当番の者があたり、供えもの白米2合とローソクは宿の当番が準備することとし、前回の宿の者は掛軸を持参する。会員は会費5,000円のみとした。しかし、年を追うごとに高齢化し、平成17年9月25日を最後に休講を余儀なくされた。


庚申講

 干支(えと)の一つ、かのえさる(赤面金剛)の信仰者による講で、60日毎に回ってくる庚申の夜に行う行事とされている。
 昔は庚申講は寝ないで徹夜する風習があった。庚申愛好者が集まり年1回とか決めて、かのえさるの日に講を行い、宿は持ち回りで米や金銭を持ち寄り庚申(赤面金剛)の掛軸を掛け、灯明と共に御神酒や当日の料理などを供えて酒を酌みかわし、世間話に花を咲かせ夜を明かした。当日は平打ちそばやうどんをつくって盛大に行われた。野上でもいくつかの集落で講があり、盛んに行われてきた。しかし、時代と共に若者の信仰心の関心も遠のき、高齢化も進み廃止に至り、実施するところは少なくなった。
 現在野上で行っているのは、羽場地区の講のみとなった。


バナースペース