若水
年の始めの朝(元朝)に汲む水を若水といった。
暮れのうちに準備しておいた新しい桶(手桶)に、その家の主人が早く起きて井戸から手桶に若水を汲んでくる。
この水を鉄瓶に入れて囲炉裏で湯を沸かし、茶を入れて一番茶を神棚や仏壇に供えた。
また、若水でご飯を炊いたり雑煮餅をつくったりした。若水を使ってつくったものを食べると、邪気を払い一年間健康で居られると傳えられてきた。
手桶は、暮れのうちに桶屋にお願いして新しい桶を準備し、桶の持ち手のところに毛筆で若水桶と書いた。
現在ではプラスチック製の容器に変わり、木製の桶はあまり見られなくなった。
正月科理(元日)
正月三が日の食事や料理は、その家や地方によってさまざまな家例(代々伝えられてきたやり方)があった。
野上地方では、ほとんどが農家だったので正月には里芋の芋串をつくる家が多かった。暮れのうちに、モッコという縄で編んだ袋のようなものに里芋を入れて、その袋を二人がかりで引っ張り合って、上げては落としを繰り返して打ち、袋の中で芋同士がこすり合い皮をきれいに落とした。更に芋を桶(八升樽)に入れて芋こしり棒という道具を使って擦って洗った。正月の三が日分を洗って準備した。
旧冬に準備しておいた里芋を大きい釜いっぱいに茄で、芋を元の方に親芋を刺し上の方には小芋を竹串に刺した。味噌でつくったタレをつけて囲炉裏にどっさりおこした炭火でこんがりと焼きあげた。芋串は焼きあがってくるとキーンという音がして、焼きたての芋串はおいしかった。子供の頃は腹いっぱい食べて芋串で朝食となった。
里芋は一個の親芋に小芋がいっぱい育つことから子孫繁栄を祈り、縁起を担ぎ正月料理としてつくるようになったと言われる。
芋串づくりは正月の三が日位続いたが、一週間位続ける家もあった。また、芋串のタレをつけて焼いた餅も軟らかくておいしかった。囲炉裏での餅焼きは、ヤキコという囲炉裏専用の餅焼きが販売されていて、遠足のときなどのおにぎりなども、このヤキコを使って焼いたものである。
元日の朝には、赤飯を炊く家、雑煮餅をつくる家など、それぞれの家例によって異なった。極端な家例に、元日の朝食を便所で食べるという変わった家例があると聞いたことがある。
新築家屋の構造や生活様式の変化に伴い、囲炉裏がなくなるにつれて正月に芋串をつくる家は少なくなった。
新年会
昔も、集落の新年会は元日に行われるところが多かった。
上の原集落でも元日の朝に行われ、以前は諏訪神社を借りて拝殿の広間を利用しで行われてきた。集落に集会施設がなかったからであった。
元日の朝、八時集合で諏訪神社に集まり、前夜の晦日参りと元朝参りの焚火の残り火にあたりながら全員揃うのを待った。世話人は、集落代表と差し番(集落の年間行事を書いた板)による当番の人があたり、暮れのうちに各戸を回って集めたお金で、御神酒やつまみ等を購入して準備した。他に煮しめなども用意して持参し、一足先に行って拝殿の大広間に準備した。
以前は、上町集落のうち、西の坪の五戸もすべての冠婚葬祭や行事等は、上の原集落と一緒に行われてきた。当時は上の原と西の坪を合わせても二十数戸位であった。
また、小屋場集落でも同じく諏訪神社を利用したので、拝殿間の半分ずつを使って行われた。新年会は集落代表の新年の挨拶に始まり、長老の乾杯で冷たい御神酒で始めた。少し酒がまわるまでは胴ぶるいである。最初に集落の三役(集落代表、納税組合長、農家組合長)を決める。現在は回り番で決めているが、当時は当日の人気指名でお願いしたので、同じ人が何年も再任されることもあった。他に陰陽神社の御祭礼があり、その世話人等も決めた。昭和四十年代は若い人が揃っていて、酔ってくると元気になり賑やかであった。区長さんや地元の議会議員さんなどから祝い酒も届き、午後まで宴会が続いたこともあった。
上の原に、高齢者コミニュテイセンターが建設されてから暖かい部屋で新年会ができるようになった。
山入り(一月六日)
新しい年を迎えて、初めて山に入る時の儀式を山入りといった。
和紙を切って作った幣束を若い松の枝につけて準備して早朝に山にでかけ、米、豆類や雑穀の他、煮干し、こんぶ、などを半紙に包んだものを三包みつくって持参し、山の神様に供えた。多少遠くても自分の山に行って供え、山入りの儀式をした。山の守り神とされる烏を大声でカラース、カラースと呼んで供えた。
山仕事の事故防止と、山の幸に恵まれ一年間の山に対する平安無事を祈願して行われる行事である。
この山入りの行事が済むまでは、山仕事や山での刃物は一切使わなかった。山入り前に刃物を使うと災いが起こるといわれた。
山方の、市の沢にある八幡様の北側の坂道に、山入りの日には両側の立木の小枝に山方の宿通りの人達が供えた幣束がいっぱい結ばれ、七夕のようにきれいであった。この道は野上や大久保方面の子供達の通学路の一部であったので、毎年見かけたものであった。
鍬入れ(一月十一日)
山入りと同様で、山入りは山に入る時に行い、鍬入れは畑や田んぼに初めて入るための行事で、田や畑の神様に一年間の無事と五穀豊穣を祈願して行われたものである。
松の若木を準備し、山入りと同様に和紙でつくった幣束を松の枝につけ、田と畑に一組ずつ作って準備して行う。畑では麦の畝を三本畝、鍬を入れて山入りと同様に幣束のついた松を立てて、米や穀物等の他、煮干し、こんぶ、餅を細かく切ったもの、などを半紙に包み三個準備し、これをー升枡に入れて持参し、それぞれ畑と田んぼに松の幣束を挿して穀物等の入った包みを広げて供え、大きな声でカラース、カラースと呼ぶ。すぐに烏が来て食べたものである。烏は神の使いとされていた。子供達も一緒についてきて、カラース、カラースの怒鳴り役であった。
また、包みの中の穀物に早生、中生、晩生の三種類に分けて入れておき、その中で一番先に烏が食べたものがその年の豊作になる種類といわれた。この日は早朝から、あちらこちらからカラース、カラースの呼び声が聞こえたものである。
この行事も山入りと同じく昭和三十年代以降は見られなくなった。
花餅とダンゴ飾り(一月十四日)
小正月を迎え十四日は、正月を迎えて初めて餅をつく日であり、若餅ともいわれた。餅米の餅の他、うるち餅(米の粉で搗いた餅)も搗いた。小正月は十五日で裏正月ともいった。
樫の木、モチノキ(ヤマコーバシ)や、ミツノキなどを台所に立てて、紅白のうるち餅のダンゴや短冊に切った餅などを枝の先に刺して飾った。たわわに実をつけた果樹を表現したものといわれた。また、神棚には梅の小枝に七個のダンゴをつけて飾り、床の間には切り株から小枝が何本も出た、ボクという株に花餅という細かく切った紅白の餅や、短冊餅などをきれいにつけて飾った。この飾りつけのボクの株採りも、正月の楽しみの一つであった。前年に切り倒した木の柿や欅の株のボクが良いとされ、形の良いボクを探して自慢し合ったものであった。
その他、お釜様(勝手場)には三十六個、馬小屋には十六個のダンゴを樫の木の枝につけて供えた。昔の農家は、馬小屋つきの広い台所の家が多く見られた。飾りつけたダンゴや花餅は一月二十日の朝にとりはずして、後で油で揚げておやつとして食べた。
飾り付けの、木の種類などは地方によって異なった。台所に飾ったダンゴは多くつける程その年は豊作になると言われた。家内安全、五穀豊穣を祈願しての行事である。
烏追い(一月十四日)
正月の十四日は鳥追いの日であり、男の子が生まれたり、跡とりに嫁を迎えた家などが鳥追い行事を行った。また、鳥追いの行事をワーホイともいった。
近くの畑や空き地に、ナガラや竹などを使って小屋をつくり、周りにムシロやコモなどを下げて風除けをつくり、小屋の中には囲炉裏を造ってドッサリ炭火をおこし、楮(コウゾ)の木を燃やして、おしるこや麹でつくった甘酒、その他、豆腐を短冊に切ったものを平たい串に刺してつくった豆腐のでんがく、その他芋串などをつくって近所の人達を呼んでご馳走した。豆腐にタレをつけて、こんがり焼いたでんがくはおいしかった。
健やかな子や孫の成長と家内安全を祈願し、併せて邪気を払ったものである。
鳥追いという名の行事から農作物を荒らす鳥を追ったのか、悪鳥を追うための行事なのか、さだかでない。
ワーホイ、ワーホイ今夜はどこの鳥追いだ、カンマクラの鳥追いだ、などと叫び歳神を迎えて夜を明かし、カックライというお年玉を頂いたりして、子供達にとって待ち遠しい正月ならではの行事であった。
隣り近所では、この日に豆腐二丁を重箱などに入れて届けた。鳥追い小屋は造らなくても家の中で囲炉裏を囲んで同様の行事を行って祝った。
えびす講(商人) (一月二十日)
えびす講は年二回、一月二十日と十月二十日に行われるが、一月二十日は主に商人のえびす講として行われ、商売をしている家で主に行われた。
恵比寿、大黒の置物や、掛け軸などを床の間に飾り、生魚のお頭つきのものを供えたり、うどんや、手打ちそばなどをつくって供えた。えびす様に財布やガマ口を供えるとお金が貯まるといわれ、ガマ口を開けて供えたものである。
当日は、商人以外の一般の家庭でも仕事は休み、ご馳走をつくって神事とした。
節分
節分の日には、大豆の枝に鰯の頭とニンニクを刺したものを玄関や出入り口の柱、戸袋などの割れ目などに刺した。
ニンニクの臭いと、鰯の大きく開けた口に驚いて鬼が逃げ出すといわれた。大豆殻の他、柊の小枝を使うところもあった。夜には大豆を妙ってつくった妙り豆を、年男が「福は内、鬼は外」と大声を上げて撒く。神棚、仏壇、床の間、玄関の他、倉や納屋等にも撒いた。福の神を呼び込み、悪魔を追い払う行事である。
残った豆を自分の歳の数だけ食べると一年間健康でいられるといわれた。また、一回で自分の歳の数だけ掴めると縁起が良いといわれ、何回もやったものである。
最近では大きい神社や寺院などで、知名人等が参加しての節分祭が盛大に行われるようになった。
針供養(二月八日)
昔は、和服が日常の衣服であったので、和裁(裁縫)は女子の必修である大切な修業であり、裁縫の先生の家に修業に通った。その裁縫で一年間使った古い針を供養するのが、針供養である。
当日、女性達は裁縫を休んで、折れた針や、古くなって使えなくなった針を集め、豆腐に刺して淡島神社に納めて供養した。針に対する日頃のご恩に感謝し、併せて裁縫技術の向上を祈願したものである。
この日は裁縫仲間が集まり、ご馳走をつくって裁縫のお師匠様を招待し、日頃のご指導のご恩に感謝をした。
長田にある淡島神社は、この日ばかりは針を供養する女性達で賑わった。女性達が集まれば当然のように若い衆も集まり、淡島神社周辺は近郷近在の若者達で賑わった。
目かご立て(二月八日)
二月八日は悪病神が通る日といわれ、柊の小枝に豆腐とニンニクを刺したものを家の入口の戸や柱の割れ目などに刺し、また、屋外には目籠(メカゴ)や草刈籠などを、洗濯干しの柱や竿の先に掛けて立てた。
悪病神を追い払う行事で、家の入口には柊の葉のトゲと、臭いニンニクで侵入を防ぎ、外には目籠や草刈籠の、いっぱいの目で見張られ、悪病神も入る隙もなく退散というものである。臭いの強いニンニク、籠のいっぱいの目、悪病神を追い払う手段として実にユニークな発想で面白い行事である。しかし、何処の家でも必ず行った行事であった。家だけやらないと悪病神に狙われるような気がして、結局やらざるを得なかったのかも知れない。
雛まつり(三月三日)
桃の節句で女の子のお祝いである。お雛様を飾り、白酒や紅白の餅など供えて健やかな成長を祝った。初めて迎える節句では、親戚などからお祝いの品や祝い金などが贈られる。
最近では高価で豪華なお雛様が店頭に並び飾られるようになり、当日のお祝いも派手に行われるようになってきた。当時、野上あたりは大半が農家であ
り、あまり派手な飾りやお祝いはしなかった。雛飾りなどもごく少数の家でしか見られなかった。
お彼岸(三月と九月)
お彼岸は、春季と秋季の二回あって、大祭日は、春季は春分の日、秋季は秋分の日であり、彼岸の中日である。お彼岸は入りの日から、お帰りの日までが七日間あり、昔から、「盆、盆とただ三日、くされ彼岸は七日ある」と言われるように、彼岸の入りからお帰りまで中日を挟んで七日間である。
また、暑い寒いも彼岸まで、の例えのように季節の変わり目でもあり、農家では農作物の種播きや収穫時期などの目安とされている。七日間あるが、一般的に中日だけを休みとして仕事は控え目とした。法事や墓参りなどは中日の日に行われることが多い。ダンゴやおはぎなどつくって仏壇に供えたり、墓参りするのが習わしである。
彼岸の七日間は、縁談や新築上棟などの祝い事は嫌い、何事も控えめに過ごす。
お釈迦様(四月八日)
四月八日は、お釈迦様の誕生を祝って行われる行事である。
昭和二十年頃、山方の常安寺で一度だけ体験したことがあった。花御堂という屋根のついた御堂に、真鍮のようなもので造られた高さ四十センチ位で、両手が天上天下を指さしたお釈迦様が甘茶の上に安置され、頭から甘茶をかけた。甘茶は薄い甘味のあるお茶で、あまりおいしいものではなかった。当時は非常時の最中で、砂糖などなかった時代であった。大勢の人がお参りに来て、お釈迦様に甘茶をかけ合い賑わっていた。
端午の節句(五月五日)
端午の節句は男の子のお祝いの行事である。吹流し、鯉のぼりや武者絵の小旗という幟旗などを立てて健やかな成長を祝った。
最近では、鯉のぼりなど立てる場所などの関係から、武者人形や鎧兜などの内飾りを飾る家が多くなった。男の子が生まれると嫁いできた実家からは吹流し、親戚からは鯉のぼりや幟旗、内飾りなどが贈られてくる。
前日には、悪魔除けとして菖蒲と蓬を家の軒下に刺した。現在では茅葺屋根の家もなくなり、この行事も見られなくなった。菖蒲を風日に入れて菖蒲湯にした。菖蒲湯に入ると中風にならないと言われ、また、菖蒲を頭に巻くと頭が良くなるとも言われた。当日は餅を搗いて柏や朴の葉にくるんで、かしわ餅をつくって祝った。
菖蒲の香りで邪気を払い、蓬の臭いで蛇除けになったといわれた。
ボーッパギ
昔は、五月六日に田んぼに入るとボーッパギになるといわれた。ボーッパギという言葉も意味もさだかではないが、ボーッパギは足の脛(ハギ)、ふくらはぎ、のことらしく、五月六日に田んぼに入ると足の脛が腫れるということらしい。
昭和二十年代の頃、小学校の児童による勤労奉仕作業として、水稲の水苗代の害虫駆除を五月六日に実施したことがあった。膝まで水につかって苗代の苗を篠竹で撫でて葉についている虫や卵を捕った、脛を蛭に吸われながら虫捕りをした。捕った虫や卵の数によって褒美として鉛筆やノートなどを戴いたことがあった。しかし、このボーッパギで足が腫れた話を聞いたことはなかった。
農家の嫁さんは、前日の五月五日に節句礼に実家に行くので、翌日の六日の日は田んぼに入れないのでゆっくり一泊して帰れるようにと、架空の病気、ボーッパギをつくり嫁を気遣って作った日ではないかといわれた。
サナブリ
田植えが終わると、サナブリといって余った苗をひとにぎり持ち帰り、よく洗ってー升枡の四つ角に苗をいれ、苗の上から大麦を妙って粉にしたコガシを苗に振りかける。コガシの粉を花に見立てたものといわれた。お釜様にお神酒と一緒に供えて、田植えが無事終わったことを感謝し、併せて豊作を祈願したものである。
この日はサナブリ神事とし、農作業は休みとした。
カマノフタ(八月一日)
地獄の釜の蓋開きといって、お盆も近づき地獄の釜の蓋が開いて仏様が出てくるという日であり、手打ちうどんなどっくり仏壇に供えた。
この日をカマノフタといって、一般的に農作業などは午前中位にして午後は休みとした。
七夕(七月七日)
六日の夕方、子供達は今年生えた新しい笹竹を切ってきてタナバタさまをつくって飾った。色紙を短冊型に切って、それぞれ思い思いに願いごとや、川の名や山の名、星の名などを書いて笹の枝につける。とりどりの色紙を使って結びつけるのできれいである。
これを七日の日は軒下や庭に立てておき、八日の朝に近くの川に流した。
オカシマさま(八月十日)
オカシマさま(お鹿島さま)の人形は、小麦藁で作るのが多かった。小麦藁を束ねて藁縄を巻いて作る。子供達が大人の人達に教わりながら、それぞれ自分で人形を作った。
出来上がった人形にトーモロコシの葉を肩から胴に掛けてタスキに見立て、腰には若い篠竹を切ってナスを輪切りにしたものを万の鍔にし、大小の二本の刀を差した。
顔には半紙に武士らしく強そうな顔を書いてつける。
小麦粉で造つくった饅頭を肩に刺し、いざ出陣のいでたちとなる。この人形を新竹の笹枝を三本位つけた竹に刺して出来上がり。庭に立てて日の暮れるのを待つ。
夕方になると、それぞれ人形を担いで門の辺りや近くの三叉路などに立て、麦藁をいっぱい燃やした。その煙に乗って戦に旅立つ姿を表現したと言われる。「オカシマさまの一大明神、鬼が勝ったりうさいな(みーさいなあ)」などと掛け声をかけ、集まった友達の人形同士をぶっつけ合い、弁当の饅頭を交換して食べた。終わってから、その場で小麦藁と一緒に人形も燃やした。また、人形を残して、道路の三叉路などに立てて疫病除けとした。
鹿島の神が香取の神と共に蝦夷征伐の際に常陸の人々が鹿島の神の応援に出陣したことに由来し、その時の兵士の姿を再現したものといわれた。
墓なぎ(八月十日)
八月一日には釜の蓋も聞き、いよいよお盆を迎える前の墓掃除である。この墓掃除のことを、墓なぎ、といった。
朝早く掃除道具の鎌、唐鍬、熊手、竹箒、その他掃除に必要なものを籠に入れて墓地に行き、除草、草刈り、墓石の掃除をしたり花を供える竹筒を立てたりした。
この日は朝からどこの墓地でも一斉に掃除をするので、草や木の葉などを焼く煙がのぼり墓掃除の煙だとすぐわかった。昭和三十年代までは土葬だったので、現在のように墓地も整然としていなかったので墓地の掃除も大変であった。最近では勤めの人が多くなり、お盆前の日曜日など休日に行う家が多くなった。
現在では、土葬はなくなり火葬となったので墓地も立派に造られ、以前のように草が生えたりしなくなったので墓なぎも容易になった。
お盆(八月十三日)
昭和二十年代以前は、旧暦の七月十三日に行われてきたが、戦後は都会に倣い自然と新暦に行われるようになった。
座敷に盆棚をつくり、棚の上にはゴザを敷いた。菰の葉を編んでコザをつくる家も多かった。盆棚の上には、先祖代々の位牌を並べて飾り、供え物として新しくできた野菜や果物を里芋の葉の上にのせて供えた。他に生花を棚の両側に供えた。盆に供える花は、前日に山に行ってキキョウ、オミナエシなどの自然の野草の花を採ってきて供えるのが多かった。当時は山も手入れされていたので、花もいっぱいあり、墓に供える花も一緒に採ってきた。
夕方になると家族揃って線香、水、花など持参して墓参りに行った。山から採ってきた花も供え、親戚の墓や隣の墓の方まで花や線香を供えた。新盆の家では早めにお参りを済ませて家に戻り、お参りに来る客を迎えた。昔は新盆の家に供えるものは、ほとんどが大きい束の島田うどんで、二束をのし紙に包んだものを供える人が多かった。また、新盆以外の親戚や知人宅の盆参りは、翌日の十四日に行くのが多かった。
新盆の家では親戚などから贈られた提灯を飾りつけ、お参りに来た客には酒、肴でもてなした。
十六日は盆送りで、盆棚の供え物をゴザにのせて持参し、墓の入口や近くの三叉路の一隅などの毎年決まった場所に置いて線香を供えて送った。菰で作ったゴザはゴザごと置いて送った。
お月見 十五夜 (旧暦の八月十五日)
すすきの穂二本を瓶などに挿して供えた。すすきの穂はお月さまの箸代わりとされ、二本供えるところが多かった。ダンゴやおはぎ、秋の味覚である柿や栗などの果物の他、新しくできた里芋の入ったケンチン汁なども供えて月の出るのを待った。十五夜の供え物を盗み歩くのも子供達の楽しみであった。この日ばかりは月見ドロボーを見ぬふりをして盗ませた。盗まれるほど縁起が良
いとされた。それでも子供達は腰を低くして見つからないように盗んだものである。
また、この日には稲藁の中に、里芋の茎やミョウガの茎などを芯に入れて縄で巻いてつくった、オームギバッタというもので地面を叩く風習があり、子供達はそれぞれ自分で作って「オームギバッタソバアタレ、サンカクバッタソバアタレ」などと叫びながら、庭や地面を叩いたものである。叩く音が方々から聞こえてくると、負けずに本気になって叩いたものである。芯に里芋やミョウガの茎を入れるのは音が良くでるからである。隣近所の家まで叩いて回った。地面を叩くのはモグラに盛られないよう、追い払うために行ったといわれた。このオームギバッタの使用後は、柿の木に吊るしておくと柿の実が豊作になるといわれた。
十三夜(旧歴の九月十三日)
八月の十五夜と同様に、お月様に供えるものは秋に収穫した野菜や果物の他、ダンゴやおはぎなどを供える。十五夜には、ススキを供えたが、十三夜には大根を供える。ススキと同じくお月様の箸代わりとされ、二本の大根を供えた。
お月見は、片見月になるので十五夜に月見をすれば、十三夜も同じように月見をするものだといわれた。
二百十日(九月一日)
二百十日、立春から数えて二百十日目で、普通は九月一日の日にあたる。
前日の夕方、嵐除けとして神棚に御灯明を上げ、御神酒を供えて今秋の平穏無事を祈った。二百二十日の日も同様に嵐除けを祈願した。
この季節は、丁度秋雨の降る時期でもあり、また台風もこの頃が一番多く発生する季節である。
十日礼(十月十日)
田の神様を祭る行事で、田の神様が農事等が無事に終わったのを見届けて、天に帰る日といわれた。
新穀で餅を搗き、箕の中に餅と大根二本を入れて、米俵の上にのせて秋の収穫に感謝する。
農家では、この日を、農上げ、といって嫁さんは餅を持って実家に十日礼として泊りに里帰りする。また、農作業を手伝ってくれた家にも餅を持って礼に行った。
一年の農事も一段落し、田の神様に感謝し農事が終わったお礼の祭事であり、十日礼、とか、農上げ、といった。
えびす講(十月二十日)
一月二十日は、商売繁昌を願つての商人のえびす講であったが、十月二十日は農家のえびす講であり、五穀豊穣、豊作を祈願してのえびす講である。恵比須様、大黒様の掛け軸や置物などを床の間に飾り、手打そばや手打うどんなどをつくって供えた。また、谷津田の水田などの堀や水溜りでドジョウや鮒などを捕りに出かけて、お頭つきの魚を供えた。
えびす様に財布やガマ口を供えるとお金が貯まるといわれ、一月のえびす講と同じく家内中でガマグチや財布などの口を開けて供えたものである。その他に、農作業に使用する縄や、井戸払いや車井戸で使う太い綱も、隣近所の人と共同作業で作って供えた。昔の井戸は跳ねつるべか車井戸であった。
現在は、生活様式等の進歩に伴い、また水道の普及により、跳ねつるべや車井戸はなくなり、テレビの時代劇で時々見るくらいである。
山の神(十一月六日)
山の神様を祭る日で、この日山に入ると罰があたるといわれた。また、山で刃物を使ったりすると怪我をしたり、災いが起こるといわれ、六日の日は山の仕事は休んで、山での災難がないようお祈りし神事とした。
手打ちそばやうどんなどをつくって御神酒と共に供えて、山の神に山の安全と平安を祈願した。
地域によっては、山の神講をつくって男達が宿回りで集まり、山の神の掛け軸を掛けて、ご馳走をつくって御神酒と一緒に供えて山の安全を祈願し、酒を酌みかわし夜を過ごした。
ツボ餅
ツボ餅とは、土穂餅のことで、庭寄せ餅や播き上げ餅などとも言われた。稲のこないものが終わって最後に掃き寄せたものや、落穂などの土で汚れた土穂などのクズ米を集めて精米し、粉にひいて餅にしたもので、うるち餅といった。搗いた餅は大根のように円筒型に丸めて棒餅といった。
最近は手間がかかるので、うるち餅をつくる家は少なくなった。ツボ餅をつくる日は決まっておらず、坪内や近所隣りで申し合わせ、秋の取り入れなど収穫が全部終わってから行なった。
金砂まち(十二月十二日頃)
金砂神社のお祭りで金砂まち、といった。当時は娯楽などは少なく、お祭りなどはどこでも盛況であった。
当日はお赤飯などつくって仕事は休みとし、自転車や歩きで金砂神社までお参りに出かけた。
戦後の昭和二十年代は、地下足袋にゲートル巻きで一日がかりで歩いてお参りした。
当時としては賑やかなお祭りで、遠方からの大勢の客で賑わった。
露天商が並び、客でごったがえした。しかし当時は戦前戦後の非常時で、店で、売っているものは柚子に柿ぐらいで、蜂谷柿の干し柿などは最高の土産であった。特に竹の串に刺して何段にも編んで吊るした小さい柿の干し柿は、名物であった。他に十二合桶といって、板を十二枚合わせて造った桶があった。この桶を買ってきてドブロクをつくった。
金砂まち、と共に、瓜連の静神社の秋祭りも賑わった。
七五三(十一月十五日)
女子は三歳、男子は五歳の時に行うお祝いである。昔は七歳になった女子が、付け紐のある着物から紐をとり、帯を締めるようになったところから帯解き、ともいわれた。子供が成長して一人前になったことを祝う行事であった。現在では、七五三の祝いとして、女子は三歳と七歳、男子は五歳として豪華な晴れ着を着飾って、お寺や神社にお詣りをするようになった。健やかな子供の成長と、無病息災を祈願して行われるものである。
しわすついたも(十二月一日)
師走一日(十二月一日)を、しわすついたち、といった。川浸しの日である。餅を搗いて二個の小さいお供え餅を持参して川に流す風習があった。川浸し餅とか、かわっぺいり餅などといって、川に尻を浸して、水難を逃れるように餅を川に供えてお祈りしたといわれる。
昔、奉公人が早朝に川の流れに尻を浸して、冷静な気分になって餅を戴いて実家に帰り、餅を食べながらゆっくり今後のことを考えたことから、思案餅ともいわれた。
昔は、川浸しのお供え餅で川底が白く見えるほど多くの人が投げ入れて、水神様に水難除けを祈願したといわれた。
すすはらい(大掃除)
師走になると、正月を迎えるための準備として、大掛かりな大掃除をした。
昔の家はほとんどが茅葺屋根で、家の中の土間に台所があって、カマドや流し(勝手場)が備えられてあり、板張りの居間には囲炉裏がつくられてあり、家の中で一年中火を燃やすので、一年が過ぎると屋根裏や神棚など家の中はすすでいっぱいになり、大掃除をしなければならなかった。家の中の物は戸外に持ち出しての大がかりな大掃除をした。竹の笹で作った特製の箒で軒裏や台所の天上などのすすを払い落とし、家の中も外周りもきれいにして正月を迎えた。
現在は、家の造りも現代風に造り代え、生活様式も大きく様変わりし、電化やガス、灯油などの使用に伴い、火は燃やさないのですすがたまることもなくなり、掃除機などで常に掃除しているので特別に大掃除の必要もなく、大掃除として軒周りのホコリ払いやサッシのガラスを磨く程度で、昔のような大掛かりな大掃除はみられなくなった。
冬至(十二月二十二日)
冬至の日は、太陽が一年中で一番南にあり、昼の時聞が一番短いといわれる日である。
冬至の日にカボチャを食べる風習がある。冬至の日にカボチャを食べると中風にならないといわれてきた。冬至が過ぎると少しずつ日がのび始める。
大晦日(十二月三十一日)
一年の最後の日である。家の内外の掃除も終わり正月の準備も大詰めである。門松を立て神棚には新しい飾り付けをしたり、お供え餅を供えたりする。
正月の芋串用の里芋を洗ったり、正月に使用する大根、人参、牛蒡などの野菜などを洗ったりして準備する。なかでも、里芋洗いが大変であった。正月三が日につくる芋串なので量も多かった。里芋の皮や土を落とす方法として、縄を編んでつくった芋打ちモツコというものを使った。芋打ちモツコの中に里芋を入れて、両方に縄の紐をつけて両方から二人がかりで、引張り合って持ち上げては落とすを繰り返すことで、芋と芋がこすり合いきれいになる。これを木の樽に里芋と水をいれて芋こしり棒という、松の枝が八方に出た部分を利用して作ったもので、ゴシゴシこすり洗いをしてきれいにした。
大晦日の日は、どこの家でも朝から手打ちそばや手打ちうどんをつくった。つくったそばやうどんは桐の板で造った蓋付きのハンギリというものに入れて正月の三が日保存して食べた。
夜は三十日そばを食べ、囲炉裏には炭や薪を燃やして、米麹でつくった甘酒や、おしるこなどを飲んだりして年越しをした。ラジオやテレビなどなかった時代であり、もっぱら一年を振り返っての雑談で年を越した。