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ふる里を記憶と写真で綴る昭和・平成


冠婚葬祭

冠婚葬祭


御祝儀

 昔のご祝儀は、仲人や知人の紹介によって持ち込まれる縁談が多く、本人同士の意見などはあまり重視されず、相手の容姿や器量などより、血統とか財産などに重点がおかれ、顔つきや器量は二の次で、相手が良いとなれば親同士と仲人によって決められてしまうことも多かった。
 仲人は婚約が成立するまでには、両家の間を七度半通うとされていた。それほどに両家共に相手方を念入りに調査したので時間がかかったのである。ほとんどが仲人に勧められての見合いが多く、特に農家から農家への場合はその傾向が多かった。お互いに純情な農村の若者の場合などは、姉が不細工の場合、見合いに妹が替え玉に出されても、結婚式には当人の姉に代わっていても気が付かなかったという話もある。
 見合いが終わり婚約が成立すると、〆樽(結納)となり当日には仲人が新郎方に行き、結納品一式と熨斗紙を水引で結んだ赤樽(祝い事に使用する柄の付いた樽)に酒ー升を入れ、樽にはスルメ二匹を結び付け持参して新婦宅に参上する。ご両親と新婦の他、兄弟、親族等の迎える前で結納品一式、目録等を並べて、仲人は結納の口上を述べ盃を交わす。持参した赤樽の酒を、半分の五合を使用する。盃は両親、新婦、兄弟、叔父等と順に回し結納の固めとなる。なお、御祝儀の日どりなども結納の日に決めることが多かった。
 仲人は残りの五合の入った樽を新郎方に持参し、結納金(御帯料)の受領証と目録を持参して新婦側と同様の儀式を行い、目出度く〆樽、結納の儀式は終わる。その後に近所の方なども招いて婚約の披露をして祝い酒となる。
 昔は、〆樽と結納は別の日に行われ、それぞれの儀式が執り行われた。また、事情によっては〆樽の日から、足入れといって婚礼前に新郎方の家に行って生活することもできた。足入れをすれば御祝儀前でも夫婦として認められて、両家は親戚としての付き合いをすることができる。諸事情によって結婚式が遅れる場合などに行われることが多かった。
 御祝儀は農繁期を避け、秋から春にかけて式を挙げることが多い。御祝儀の二三日前の吉日を選んで、嫁入り道具が新郎方に運ばれる。衣装入りの箪笥、布団、鏡台、針箱、はり板、裁ち板、下駄箱、たらい、などが運び込まれた。箪笥の鍵はかけない儘とされ、衣装や道具を近所の人達が自由に見ることができた。中身などで評価されるので、親は無理をして衣装などいっぱい入れた。祝儀は自宅で行われ、二三日前から近所の人達が手伝いに集まり準備で大変であった。
 結婚式当日は、新郎側から仲人夫婦と新郎の他、近親の人が五人か七人で嫁を迎えに行く。赤樽に〆樽の時と同様に酒ー升を持参して家紋入りの弓張り提灯を持って出かける。
 新婦側に着くと、相客の案内で座敷に上がる。仲人は持参の赤樽を新婦の父親に渡すと床柱を背にして座り、一同も向かつて右に男、左に女がそれぞれ年の順に座る。最初にお酌よりお茶が出され、その後おひき合わせといって新郎側、新婦側の父母、兄弟、おじ、おば、などの紹介(名乗り合い)が行われる。それが済むと新郎方から持参した赤樽の酒の半分を冷酒で、三つ組の杯を回して飲む。本膳にはお頭付の魚や鯛、たこなどの刺身、酢のもの、吸い物などの七品。引き物は打ち菓子は「松、竹、梅、鶴、亀」。生ものは「鯛、めまき、かまぼこ、えび」。他に祝宴の最後に大きい鯛の塩焼きが出された。酒はお酌が次々とついで回る。それからは新郎方に近所の人が相客として酒の接待をする。相客の人が代わるがわる接待されるので酒の弱い人は大変である。
 新郎は、宴会の途中で新婦の叔父などに連れられて名入りの手拭を持って坪内の家をオミアワセに回る。最後には、御納めの杯となり、三合杯、五合杯、七合杯などの大盃での接待となり、飲まないと新婦は渡せないなどと言ってすすめられるので結局宴会が長くなる。やっと最後のうどん(ゴタンのうどん)をご馳走になり、新婦の引き渡しのころは早くとも午後十時を過ぎることもある。祝宴の後、新婦は両親に別れを告げ仲人の案内で新郎方に引き渡される。新婦を送る一行は新郎と同様である。昔の嫁入りは、馬に乗せられて行ったそうだが、昭和になってからは自動車を利用するようになった。
 新郎の家に近づくと、相客の人が家紋入りの提灯を持って出迎える。新婦が座敷に上がる際には新郎方の親戚の女の人が新婦の頭上に笠をかざす。笠被せといって、今日から新郎方の一員となって家業に携わるという表現をした。一行は相客の案内で座敷に落ち着くと、まず仲人は新婦方から預かった受領証や持参品を新郎の親に渡す。すぐに、落ち着きのお茶が出される。新郎方での接待は新婦方とほとんど同様であるが、祝宴に入る前に夫婦盃の儀式がある。座敷の六枚屏風で仕切られた中で三三九度の盃が交わされる。仲人の指揮で、五、六歳の男女の子供が雄蝶、雌蝶の銚子を持ってお酌をする。雌蝶は新郎に、雄蝶は新婦に酌をする。三三九度の夫婦の固めの式が終わると、今度は新婦方の客をもてなす酒宴が始まる。出されるお膳の料理や品は新婦方とほとんど同様である。この席には新郎方から話上手な相客が何人も交代で酒を勧めて接待をする。酒宴が終わって客が帰るのは夜中になってしまう。酒宴が始まると、新婦は新郎の叔母などに連れられて花嫁姿で、提灯をかざして近所の家を回ってオミアワセを済ませることが多かった。
 全ての式が終了し新婦の客が帰って、それから新郎方では近所隣の人や親戚の人達の祝いの酒宴に入るのである。しかし待ちきれず、また遅くなって迷惑をかけるので、襖で部屋を仕切ってお祝いの宴を始めてしまうことが多かった。
 ご祝儀が終わっても、二、三日は友達や同級生などを招いて宴会が続き大変であった。
 現在では、家での結婚式はなくなり結婚式場を利用し、また仲人(媒酌人)を介しての結婚式も少なくなり、本人同士で結婚式場を選び司会者に委ねる結婚式が多くなった。


お悔み(葬式)

 現在では、葬儀場を利用しての葬式がほとんどとなり自宅での葬式は少なくなった。
 昭和四十年頃までは、ほとんどが士葬であり、集落総出の葬式で大変であった。亡くなった人があると隣の人や集落の代表に連絡し、当家と集合時間を決めて、ころばし(言い傳え)で決められた範囲の集落全戸に連絡する。勤めの人が多かったので夕方に当家に集合することが多かった。
 時間となり全員が揃ったら、当家からの挨拶と依頼により、集落代表か長老の人が座長となり当家の意向を聞いて日程や葬式の役割などを決める。帳場五名、陸尺六名を決める。帳場が決まれば早速帳場はお寺様に連絡をとり、読経依頼と棺(本泉寺に既設の棺があった)の予約をする。次に、祭壇や棺桶の発注などをした。帳場が決まった時点からすべて帳場の指示に従った。相談が終了したら明日の朝の集合時間を帳場から告げられる。夕食前の時は簡単な夕食も準備した。豆腐と酒で焼酎上げをして当日は解散とした。
 朝食は済ませてくるようになったが、昔は朝食から葬式の終了するまで当家で食べた。両隣は子供まで当家で食事をして学校に行った。その後は統一され朝食は済ませてくるようになった。
 次の日は、帳場の人は早めに行って全員が集まるのを待ち、当家からの名簿によってお知らせの封筒の宛名書きを手伝ってもらった。お知らせ状は学校に行ってお願いし、鉄筆書きのガリ版刷りで黒枠入りとした。お知らせ状は宛名を書いたセロハン封筒に入れて、地域ごとに振り分けてお知らせに出かけた。野上地内は一人とし、他は二人ずつ出かけた。大宮、大子位までで、遠くは電報とした。野上地内は歩いて行き、以外は自転車で行ったが、遠くに行った人は三時頃帰る人もいた。弁当代としてカツ井程度を頂いて行った。親しまい、の家や縁の近い親族の家では、お昼の準備などして大変な接待をし、土産まで用意しておく家もあった。
 帳場の人は葬儀に必要なものを書きだして、不足のないようこ婦人方とも相談して購入して取り揃えた。病院より死亡診断書を頂き役場で埋葬許可書を頂いてくるのも、帳場の仕事であった。陸尺の人は、お寺から既設の棺を借用してリヤカーで運んで来る。
 当家より墓地の埋葬場所の指示を受けて、棺箱に合わせ六尺の穴堀りをする。山手の墓地は途中で岩や石に出合ったりしてツルハシで掘ったり、骨や頭蓋骨などが出たりして交代で掘るが、場所によって大変であった。帳場より酒ー升と豆腐一丁が届けられ清めながら掘る。掘り終わったら道具は七日目迄その儘置いてくるのが習わしであった。他に、出棺時に備え、竹を割ってタイマツを作った。昔は夜に行ったので灯りとりの他、狐や狼除けとして行われ、その名残りで形式だけ残り行われていた。
 手伝いのご婦人は、赤飯を炊いたり煮しめをつくったり、食事の準備などで忙しい。特に当日は早朝に集まり、葬式に来た客が式の始まる時間まで休む中宿(休憩所)の準備、また、接待など大変であった。中宿は両隣りの家を借りることが多かった。
 当日、陸尺の人達は帳場で準備した地下足袋を履いて、六尺の晒をタスキに巻いて手拭の鉢巻で整え、帳場で準備した酒ー升と豆腐一丁で清めながら出番を待った。酒は残してはいけないと言われ、飲まない人がいると大変である。既設の棺は四人で担ぎ途中での交代はできないので、酒をひっかぶった人は大変なことになる。
 帳場では焼香の呼び出し以外の人は、香奠等の受付をするが、並んでの行列で一時は忙しい。親しまいが多かったり引きものがある場合は特に大変であった。式が終わって墓に埋葬に行っている間に、香奠の金額を数え香奠帳と合わせる。しかし、香奠を袋に入れずに出されたり釣り銭の人、また行器代として現金を出す人などもあって実際には中々合わず、埋葬の人が帰っても合わない場合もしばしばあった。
 計算が終わって、当家や親しまいの人にそれぞれ香奠の金額を渡し、最後に葬儀に支出した決算の報告をして帳簿と残金を渡して、一応の役目は終わる。行器代は集落の手伝いの方にとのことなので、手伝いを受けた戸数で均等に分ける。行器とは、手伝いの方にと赤飯や煮しめ、鰻頭、菓子などをホカイという四段重ねの重箱に入れて容器に納めて帳場に持参するもので、近い親族で持参するものである。
 葬儀終了後は、当家よりご苦労振る舞いのご馳走が準備された。帳場長よりの挨拶と当家からの御礼の言葉があり、三日目、七日目の法要も併せて行う場合が多かった。当家や親戚からご苦労に対しての品など頂いて、三日間にわたっての葬儀は終了となる。


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