兵隊ごっこ
昭和二十年前後は、大東亜戦争の最中でもあり、また戦後になっても戦争の名残があって子供達の遊びは兵隊ごっこが多かった。ラジオやテレビなどはなく、遊び道具もなく、子供達で遊びを考えて遊んだ。家の中で遊ぶものはスゴロクや将棋の山くずし位で、一時間もすれば外での遊びがしたくなる。屋外での遊びといえば、男の子はやはり兵隊ごっこであった。
竹や木を削って刀や鉄砲を作って振り回したものであった。ボール紙で階級章や勲章までつくり、二等兵から大将までつくった。刀で頭を叩かれるので、家から鍋や洗面器などを持ち出し頭に被って応戦した。鍋などデコボコにして叱られたものである。
頭にコブができたり血が出たりすると、階級が上がったりした。大将や上級の階級は、いつも上級生が多かった。一二年生はいつも二等兵である。
敵味方に分かれて野山を素足で駆け歩いた。腹が減って生のサツマイモや生の栗などを食べたものである。勉強などはそっちのけで駆け歩き、宿題など忘れて先生に叱られたり、立ち番などさせられたりしたものだ。
パーぶち(メンコ)
パーぶちは、何年かの周期で流行ってくる遊びで、数年続いたと思うと、いつの間にか廃ってしまう。何年かが過ぎると、また流行りだしたり廃ったりの繰り返しであった。
昔は遊びが少なかったので、正月など外で遊べるのは凧上げかパ一打ち位で毎日のようにやったものである。パ一打ちを始めると負けるのが悔しいので、色々な知恵もついてきて上手になってくる。遊びの技術や誤魔化し方が身に着いてきて、あまり力を入れないで、瞬間的に相手のパーを裏返しにしたものである。
誤魔化しの典型的なものに、子守用のネンネコ伴天や、大きな袖の付いたドテラなど着込んできて勝負に挑むものもいた。伴天やドテラの大きな袖を巧みに使って風を起こして裏返しする方法で、袂の風の煽りを利用した卑怯な反則技である。また、何枚も張り合わせ重たくしたり工夫したものであった。
このパ一打ちは、下手をすると手打ちをして指先を地面にいやと言うほど打ちつけることもあった。
地方によっては、パ一打ちのことメンコ打ちとも言った。
ビー玉あそび
ビー玉遊びも、パ一打ちと同様に、流行り廃りはあったがよく遊んだものである。今でもビー玉は店で見かけることがある。しかし、昔のようにビー玉を使って遊ぶ姿はみられない。
昔は色々な遊び方があって、考えながら遊んだものである。一定の距離を決めて線を引きその線の上に各自ビー玉を一個ずつ置いて、そのビー玉をジャンケンで決めた順にビー玉を投げて当てる方法で、線の上のビー玉に当たるとそのビー玉は自分のものになる。
他に、それぞれ一個ずつ置いてあるビー玉を狙い、真上から落として当てる方法もあった。しかし、芯に当たると割れてしまうこともあった。
定番として一番遊んだのは、相手のビー玉を指で弾いて取る方法の遊びであった。この遊びは、最初に通過点として、一定の距離のところに穴を作っておいて、必ずこの穴に入れてからでないと、相手のビー玉を狙うことができない。わざと入りにくい斜面などに穴を作る。発射線から親指と人差し指を使って打ち始めて穴に入れる。いつまでも穴に入らないでいると、先に入った人に当てられて取られてしまう。
小指を地面につけて、親指と人差し指で弾いて相手に当てる方法である。穴を三か所位作っておいて、これを全部クリアしないと相手のビー玉は狙いない。穴の数を何か所にするかは、始める前に決めて作る。
慣れてくると面白くなり夢中になって、夕方ビー玉が見えなくなるまで遊んだものである。
ベーコマ
鋳物で造った三センチ位の小さくて平たいコマである。表面には時代のキャラクターなどが刻み込まれてあった。
樽や大きいバケツなどの上に、肥料袋など厚めの紙や布を被せて紐で固定し、すこし弛みをつけて土俵をっくり、その上にコマを打ちつけるように投げ入れて回し、相手のコマを土俵の外に弾き出す遊びである。
コマは、薄くて低い程、相手のコマを弾き出す力があるので、ヤスリで、磨ったり、コンクリートの上で磨ったりして薄くしたものである。
最初は中々土俵の上にのらないが、慣れてくると百発百中でのるようになる。相手のコマを土俵の外に弾き出せば、そのコマは自分のものになる。ポケットが抜ける程コマを入れて持ち歩いたものである。
正月などには、自分で木を削って作ったコマを回して、長く回っている時間を競い合った。コマ作りはバランスがポイントで、均等に削ることができれば成功である。麻紐などで巻いたコマを投げつけるようにして回して遊んだ。
タガまわし
一般的には自転車のタガを使って回すのが普通であったが、中々手に入らない時代であり、やむを得ず大きい桶に巻いてある、針金の八番線を縒って作った桶のタガを回して遊んだ。自転車のタガと違って軽くて細いので、回すのに技術を要した。回す棒は細い竹の二岐の部分を使い、巧みに回した。回すのが難しいところが面白かった。
また、金のタガのないときは、樽などについている竹のタガまで回した。竹のタガの場合は、最初に回り出すまでのバランスが取れず難しかったが、慣れてくると面白くなり病みつきになったものである。
毎日、自転車のタガでばかり回して遊んでいると、飽きてきて変わった難しいものに挑戦したくなり、思いついたのが桶などのタガであった。
自転車が少なかったので、自転車のタガはあまりなかったので手に入らず、色々と工夫して遊び道具を探して遊んだ。
クギぶち
素手で、地面に釘を打って遊ぶので、通称クギぶちといった。この遊びは長くは続かなかったが
、終戦前後に一時的ではあったが流行った遊びであった。
五寸クギや三寸クギなど比較的大きいクギを使った。小さいクギでは軽くて、指で反動をつけても地面に刺さらない。遊び方は、親指と人差し指でクギの頭の部分を掴んで地面に打ちつける要領で打って遊んだ。
竹馬のり
昔は、親に教わり友達や兄弟などと、苦労して竹馬作りをしたものである。当時は小さい頃からみんなが乗っていたので、竹馬に乗れない子供はいなかった。最初は十センチ位の高さから乗り始め、上手に乗れるようになったら徐々に高くしていった。
小学校の上級生になると、自分で竹馬を作って乗った。足を載せるところがよく結んでないと、ずり落ちたりしで慌てることがある。昔は針金などなかったので藁縄や藤蔓などを使って縛ったので、乗っているうちに、だんだん延びてきて弛んでしまい、竹の節からずり落ちたりして転んだりした。
雪が積もった時など、近くの子供は学校まで竹馬で来た人もいた。大雪の時などは自分の背丈位の高さにして友達の家まで遊びに行ったりした。地面に竹馬の足がめり込んでしまい抜けなくなって飛び降りたこともあった。高い竹馬を乗る時は台をしたり、土手の上から乗ったりした。
上手になると、片足乗りや駆け足もできて競争をしたものであった。
三角のり
子供用の自転車などなかった頃で、大人の自転車も古いものを修理しながら使っていた当時である。当時の自転車は丈夫にできていて車体も重たく、重い荷物を荷台に載せて運んだりするため頑丈にできていた。
今の自転車のようにサドルから前の部分がオープンになっていなかった。サドルの下からハンドルにかけて鉄パイプがあって三角になっていた。大人の自転車を子供が乗るにはパイプを跨ぐことになり、子供ではベタルに足が届かない。当時も婦人用の自転車はパイプがなく、前の部分がオープンになっていた。しかし一般家庭では普及していなかったし、経済的にも無理であった。
結局、ほとんどの子供が普通の大人の自転車に乗らざるを得なかったが、子供の足ではベタルに届かないので、考えたのが三角のりである。車体の三角の間から足を出して反対側のペタルを踏んで、自転車の横面にはりつく形で乗ったのである。いわゆる横乗りであった。バランスをとるのが難しく、すいすい乗れるようになるまでには、何十回と転びながら覚えたものであった。
三角の間から足を出して乗ることから、三角のりといった。この三角のりは、当時の子供で経験のないものはほとんど居なかった。上級生になって成長し、足が長くなって普通にペタルに足が届くようになるまでは、誰もが三角のりであった。女性でも、お転婆娘は男子に負けずに三角のりをしたものである。
オニムシとり
野上地方の子供達は、すべてのクワガタを総称してオニムシといっていた。
雄の大きいクワガタをオドゴメといい、雌は全部ババーメといった。ミヤマクワガタは背中には箱型があるのでハコショイといい、角に細かいギザギザのクワガタは鋸の歯に似ているところからノコギリといっていた。体が小さくて角のギザギザが少ないクワガタだけをクワガタと呼んでいた。地方によって色々な呼び方があったようだ。
昭和二十年代は、クワガタ捕りの方法として、オニムシホーロキという捕り方が多かった。クワガタが住みそうなあまり大きくない木を選び、幹を足で蹴って揺さぶる。ホーロキとは揺さぶることで、その振動の衝撃で幹や枝にいるクワガタが落ちてくる。しかし、落ちてきたクワガタは素早く拾わないと落ち葉の下などに入られてしまうので、急いで拾う。時には大きい毛虫なども落ちてきて、びっくりしたものであった。
樫の木が一番多く住んでいた。次に、クヌギの木、ナラの木の順に多く住みついていた。子供の力では、あまり大きい木は蹴っても動かないので、子供でも振動が効くような木を選んで蹴った。
木の幹にバヂックイといって、虫に食われた傷跡で汁が出ているところにはカブト虫やクワガタなどが集まってくる。しかし、スズメバチなども集まってきて一緒に汁をすっていたので注意が必要であった。
周りが農家なので、堆肥などにカブト虫の幼虫がいっぱいいて、カブト虫はいくらでも捕れたので興味はなかった。時々友達と大きいカブト虫を捕ってきて、マッチ箱などに糸を結び角に引っ掛けてヲ|かせて競争をして遊んだくらいであった。
メジロとり
鳥籠におとりのメジロを入れて、籠ごと風呂敷に包んで早朝のまだ薄暗い時間にメジロ捕りに行った。できるだけ山奥で小高い頂上付近をめざした。高いところ程メジロの鳴き声が聞こえて集まってくるからである。笠敷山から金毘羅さん、ジジイコロパシ辺りがメジロ捕りの集まる場所で、野上や長田から大勢の子供達が集まった。栗の若木の徒長枝を使い、枝のトリモチを巻く部分を口で舐めてぬらして巻いて使った。
仕掛けは、メジロが来そうな、あまり大きくない木を選びオトリの鳥籠をひっかける。籠の上にトリモチを巻いた栗の若木を二本位挿して、他にメジロの好きな、熟した柿や、タラの実などを置いてメジロを引き寄せる。
オトリのメジロの鳴き声に誘われてメジロが方々から集まってくる。メジロが籠に近づいてきたら、すぐにトリモチにかかったメジロをとりに行けるようにヨーイドンの姿勢で待つ。ゆっくりしているとメジロの羽毛に、トリモチがくっついでしまったり、逃げられてしまうからである。メジロはトリモチにかかると、すぐにクルッと逆さまにぶら下がる習性があり、温かい日などはトリモチが軟らかになり、ゆっくりしていると、その儘ぶら下がって逃げられることが多い。
メジロが近づいてきて息を殺して待つスリルが、何とも言えない心境であった。一度に三羽位かかってしまった時などは、メジロの足に着いたトリモチを取っている暇がなく、その儘入れてしまうので、足のトリモチに毛が付いてしまい抜けてしまったりして価値が下がってしまう。メジロとりは、秋の霜が下りる前がよいとされた。誰もが経験したメジロとりである。
ヤマガラも捕ったが、ヤマガラ捕りはトリモチを使わず、オトリの籠を使い、二連式の籠で半分に仕切られ、片方にはオトリのヤマガラを入れ、もう片一方は仕掛けになっていて、エサのエゴの実などヤマガラの好むようなエサを入れて置き、オトリのヤマガラに誘われて仕掛けの中に入ると天上の開いていた戸が閉じる仕掛けになっていた。
水ハゴとバカハゴ
ハゴとは、小鳥などを捕るときに使う、栗の若木の徒長枝などを利用してトリモチを巻いた枝のことである。
雑木林の谷間などに、僅かに流れる湧水でできた水溜りがあり、そこは小鳥達が水を飲んだり羽を休めて水浴びをしたりする水場となっている。それぞれの小鳥達は、いつも来る水場は決まっているようで、一日のうち何回か決まった時間帯にやってくる。この水場にトリモチのハゴを仕掛けて捕る方法を、水ハゴといった。オトリの鳥がない時に、オトリを取るためによく利用した方法である。
他に、バカハゴというやり方で捕る方法もあった。小鳥が飛んできて何時も決まって止まる枝があり、その枝を利用して仕掛ける。何時もの止まる枝を切って、代わりにトリモチのハゴをすり替えて仕掛けて置く。気付かずに止まってしまい捕れたものである。注意深いスズメさえこの方法には引っかかることがあった。これをバカハゴといった。
ホージロ追い
最近はスズメの数も昔よりは少なくなったが、特に、ホージロの姿は最近めっきり少なくなり滅多に見ることができなくなった。昔はスズメの次にホージロと言われる位に、山の近くや原野の林などにいっぱい生息していた。
ホージロは、雄の頬が白いことからホージロの名がついたと思われる。追われたりすると、少しでも高いところに飛んで行く習性があった。特に春先の繁殖期になると、雄のホージロが高い木の梢で盛んに鳴いているのを見かけたものであった。
ホージロの習性を利用してホージロ捕りをした。メジロ捕りと同じように、トリモチを使って捕った。栗の徒長枝にトリモチを巻いて、ホージロが何時も集まる茶の株などの高いところにトリモチを篠竹の先に挿して、茶の葉より先にトリモチの部分だけ出して仕掛ける。ホージロが止まりやすいように仕掛けるのがコツであった。茶の株が一番仕掛けやすい高さであった。これを何か所か仕掛けて、田んぼなどにいるホージロを、反対側から仕掛けの方に追い払うのである。あまり遠くには飛んで行かず、止まるところが決まっているので仕掛けやすかった。トリモチにホージロがかかったら、一目散に駆けて行かないと逃げられてしまう。
学校が休みの日などに、二三人の共同でよくやった遊びがホージロ追いであった。春先に高い木の梢で雄の鳴く、一筆啓上……の甲高い声でグデル姿は懐かしい。
バッタ罠
秋の取り入れが終わる頃になると、子供達が待ちかねたように仕掛けたのがバッタ罠である。このバッタ罠は生け捕りにする方法として仕掛けた罠で、ホージロ、アオジ、他にカワラヒワなどが捕れた。
篠竹を六十センチ位に切って、藁縄や藤蔓などで簀子状に編んだものを使って罠を仕掛けた。エサは稲穂を使い、落穂などを拾っておいたものを使った。罠に付けてある稲穂を引っ張ると、仕掛けが外れて簀子の罠が落ちる仕掛けである。簀子の上には土や石などの重しが載せてある。入った小鳥が圧死しないように、エサの稲穂の周りの地面を十センチ四面ぐらいの穴を掘っておく。この穴で小鳥は生きているという仕掛けであり、数か所仕掛けを作っておく。学校から帰ると真っ先に罠を見に行ったものである。この方法の罠には毎日のように入っていた。しかし、学校の帰りが遅くなったりして翌朝に見に行くと、既に猫などにやられて羽毛だけが残っていたこともあった。一番捕れたのはホージロであった。ホージロは水田近くの林に多く生息していたので、そのような場所を選んで仕掛けを作った。懐かしいバッタ罠の仕掛けである。
ブッチメ罠
この仕掛けも捕れるのはほとんどホージロが主であり、時々アオジが捕れることもあった。ブッチメ罠は小鳥を捕る仕掛けとしては、もっとも残酷な方法の仕掛けである。
罠の材料は、篠竹を曲げて四面に挿してつくる。近くの適当な立木を折り曲げてバネに利用して仕掛けた。エサはバッタ罠と同じ稲穂を使った。罠に下げてある稲穂を食べようと近づいて罠の止まり木にのると、仕掛けが外れて立木のバネによって小鳥の首が絞め付けられる仕掛けである。
同じような罠で、キジバトを捕る仕掛けを地面に仕掛けた。竹笹などで周りを囲い前方だけ開けておき、中には大豆やソパの実などキジバトの好きなエサを蒔いておく。キジバトは茶の実を好んで食べるので、茶の株の近くに仕掛けることが多かった。
仕掛けの要領や作り方、仕組みはホージロの罠と全く同じだが、ホージロは地面から一メートル位高いところに仕掛けるが、キジバトの場合は地面に仕掛けた。
ホージロにしてもキジバトにしても、首を絞められる仕掛けであり、焼き鳥用であった。いずれもバネによって絞めつける仕掛けからブッチメ罠といった。
フルイ罠
フルイ罠は、農家で収穫時に穀物等のゴミを篩にかけて選別するときのフルイを使用することから、フルイ罠といった。
小鳥の中でも賢くて敏いと言われるのがスズメであり、トリモチや罠には用心して近づかない。したがって、中々捕れないのもスズメであった。何時も人家の周りに数多く生息するのもスズメである。人との係わりも多いが、また厄介者とされるのもスズメある。
色々な罠やトリモチなどで試してみるが、いずれも警戒して近寄ってこない。しかし、どういう訳かフルイ罠には入ってくる。天上が金網で明るいので安心なのか、網目の粗いフルイほど近づいてくる。フルイの中には籾殻や稲穂、小麦などを蒔いておいた。
スズメが稲穂などのエサに誘われて、フルイの中に入って仕掛けを踏むとフルイがパタンと落ちて生け捕りとなる仕掛けである。
綱を引くとフルイが落ちる仕掛けもやってみるが、スズメは綱に警戒して中々近づかず、周りのエサばかり食べていて中には入らない。
フルイ罠にスズメが入った時、スズメを取り出すのが難しく、フルイを持ち上げたときフルイと地面の隙間から逃げられてしまうことも多かった。
ニラ虫つり
昔の農家では、すべて手作業によって作業をしたので、庭が作業場となっていた。稲や麦類、大豆、そばに至るまで、庭で収穫作業を行った。大切な庭の保護のために、冬期間は木の葉や稲藁などを敷きつめて凍らないよう防寒した。春になり暖かくなったら、敷きつめた稲藁など全部取り除き竹箒できれいに掃除する。
六月頃になると、きれいになった庭の表面に、一ミリ位の無数の穴が夜空の星のように並んで開いていた。人が通ったりすると、足元の近くから進む方向に順に次々と穴が開いていく。通り過ぎるとまた、地面の穴がなくなって見える。これは、穴の中にいる虫が地面まで頭を出していて、人の足音で潜ってしまうので穴が開くように見えるのである。
この穴の虫を、ニラ虫と呼んでいた。図鑑によると、ツチハンミョウという虫の幼虫のようだ。頭と言うのか、顔と言うのか、平たい奇妙な頭をした不恰好な姿をした虫である。この平たい頭で穴に蓋をしたように塞いでしまう。足音などで地面に潜るので穴が開いたように見え、また出てくると頭で穴が塞がる。蟻や虫などが穴の上を通ると、一瞬のうちに穴の中に引きずり込む。
穴に潜っている虫をニラの葉で釣ったことから、ニラ虫の名がついたと思われる。ニラの葉を穴に差し込むとすぐに噛みつき、エサの虫でないことが判ると外に噛みついた儘、ニラの葉を押し上げてくるので、素早く引き上げると頭だけがガッチリした虫が釣り上がってくる。何匹釣れるか競争して遊んだものである。
七月頃から羽化して成虫の甲虫となり、人が通る方向に一斉に飛んで移動した。
庭に芝をはったり砕石等の砂利を敷いたり、また、除草剤などを散布したりするので、今はあまり見られなくなった。
グミとり
春から秋にかけて、各季節ごとに熟れる色々な種類のグミがあった。子供達は時期ごとに熟れるグミを待ちこがれて採りにいった。
グミの中でも代表的なのはナツグミで、実の形が才槌に似ているところからサイヅチグミといっていた。近くの山野に数本の大きい木が点在し、実の熟れる六月頃には友達同士で採りに行ったものである。また、初夏に熟すバラグミがあり、色々の種類のバラグミがあった。中でも黄色く熟れるモミヂイチゴがおいしく、バラグミ中では王様であった。
桑の木に熟すクワグミもよく食べた。当時は養蚕が盛んであり桑の木は多く植えてあったので、子供の頃は腹がいっぱいになる程食べたが、口の中や唇の周りが紫色に染まり、クワグミを食べたのがバレてしまったものである。
赤く熟れたウグイスカグラの実も、手の平いっぱいを一度に口に入れて食べた。田植えの頃に熟すことから、ナワシログミとも言われた。
庭木として植えられるヤマボーシの実も、夏の七月の頃に熟し、山野に自生していたので木登りして採って食べた。別名ヨメゴロシなどとも言われ、大きくなる木で枝先の方までいっても滅多に折れない木であった。
最近あまり見られなくなったが、秋に熟すアキグミがあり、木の幹や葉などはナツグミに似ているが、赤い実が枝いっぱいに熟し、甘酸っぱく口の中に渋味を残すのが特徴であった。他にも、キイチゴをはじめ蔓性のグミ類も数多く自生し、熟す季節を楽しみにグミ採りをしたものであった。
グミとは全く種類が異なるが、塩辛い実をつけるヌルデの木があり、実が熟すと白い塩のようなものが実に付くことから、シオノミの木と呼んでいた。
水あび
久慈川までは遠いし、子供だけでは危険なので、条件は悪いが近くの小川や溜池などで水あび、水遊びをした。子供達は地域の、それぞれのグループで、より近い水場を見つけて水あびをした。
笠敷を水源とする元倉方面から流れる堀と、越地の奥を水源とした堀が合流した、県道の南側に水田用の広い堰があって、周りをコンクリートで固まれた三角型をした天然のプールがあった。通称、三角場(サンカクパ)と呼んでいた。地域の子供達の格好の遊び場で、篠の沢、上の原、元倉方面からの子供達が、夏休み中はいつもいっぱい集まって遊んだ。今と違って、水量も多くいつもきれいな水が流れていた。
また、渇水期の水田用として造られてある溜池も、夏になると子供達の遊び場となっていた。元倉の奥に比較的広くて条件のいい、カサジキタメイケと呼ばれる溜池があり、地域のプール代わりとなっていた。小麦藁など束ねてイカダを作り浮かべて乗ったりした。多く乗り過ぎて、よく沈没したものである。しかし、溜池であり底はヘドロで周りには草や藻が繁茂していて、泳ぐとすぐに泥で濁ってしまった。また、蛭に吸われながらの水あび、水遊びであった。それでも大勢集まって遊んだものであった。
少し遠かったが、枇杷川の上流の沢川にもよく泳ぎに行った。大林を通って雑木林を抜けると急な坂道で、オオザカという坂道を下って行くと沢川に着く。川の流れが屈折し岩場に突き当たり浸食されてできた自然のプールのような場所があり、マワリカドと言っていた。深いところもあったが溺れる程のところはなく、水はきれいで、子供達にとっては最高の遊び場であった。しかし泳ぎ終わって疲れての帰り道は、オオザカの急な長い上り坂を上るのが大変で、また汗をかいてしまったものである。
ヒッパジキ罠
秋から冬にかけ稲の脱穀も終わり、田んぼに小鳥たちが下りてくる頃が、ヒッパジキ罠の時季であった。
手頃な真竹を5m位に切って、小鳥のよく集まる平らな場所を選んで仕掛ける。田んぼの稲の脱穀をした跡は最高の場所であるが、仕掛けの縄を引っぱるのに距離があり過ぎて無理であった。あまり距離があると、縄(紐)を引いた時に縄が動くので小鳥達に気づかれ、仕掛けがはずれる前に逃げられてしまう。家の近くの罠から目立たないところが、小鳥に気づかれなくてよい。
2本の杭を打ち、竹の元の方を杭に2ヵ所結んで固定し、先端を弓なりにグーンと曲げたところにもう1本の杭を打ち、先端をひっかけて止める。竹を曲げて反らした外側に籾や小麦、そばの実、モミガラなどを蒔いて小鳥をおびきよせる。曲げて止めた杭に縄を結び、縄をひっぱると止めた青竹が外れて竹の外側にいる小鳥が全部弾き飛ばされる仕掛けである。
最初のうちは見事にきまり、1回に20羽位の小鳥が捕れた。しかし、馴れてくると警戒をして近寄らなくなる。
また、長い時間竹を曲げたままにしておくと、竹が曲がったままの癖がついてしまって弾力性がなくなり、全く機能を失ってしまう。また、冬などは凍ってしまって戻らなくなってしまうので、厳冬期にはやらなかった。
しかし、この仕掛けは小鳥を全部弾き飛ばして殺してしまうという、もっとも残酷な方法の罠であった。焼き鳥用の罠である。